ピエール・ラヴァルとは
ピエール・ラヴァル(Pierre Laval、1883年〜1945年)は、フランス第三共和政期からヴィシー政権期にかけて活躍した政治家です。社会主義運動から政界に入った彼は、やがて右派へと路線を変え、首相を二度務めました。しかし、その名が歴史に刻まれることになったのは、第二次世界大戦中にナチス・ドイツとの協力(コラボラシオン)政策を主導したためです。
政界への登場と左派からの出発
ラヴァルは1883年、オーヴェルニュ地方に生まれました。1907年にパリで弁護士となり、一時はフランス急進左派に近い立場をとります。1914年には社会党(SFIO)の代議士として当選し、1923年にはオベ르ヴィリエ市長に就任しました。
1924年には独立社会主義者として再選を果たしますが、この頃からブリアン(中道)内閣やタルデュ(右派)内閣への参加を経て、政治的立場を右へと大きく移していきます。
首相就任と戦前の外交
ラヴァルは1931年に閣僚評議会議長(首相)となり、1934年には外務大臣、さらに1935年には再度首相に就任するなど、戦間期フランス政界の重要人物として台頭しました。
しかし人民戦線政権の成立により政府から去った後、彼はドイツに対して宣戦布告しないことを擁護するなど、宥和的な立場を貫きました。
ヴィシー政権下での協力政策
1940年の休戦後、国務大臣となったラヴァルは、元帥ペタンへの全権委任を採決するよう働きかけます。そして1942年、政府首班に返り咲くと、ナチス・ドイツとの積極的な関係構築を訴え、具体的な施策を実行に移しました。
- 民兵団(ミリス)の創設:レジスタンス弾圧の中核となる武装組織を発足させました。
- 強制労働勤務(STO)の実施:フランス人労働者をドイツへ移送する義務労働制度を導入しました。
さらにラヴァルは、ドイツの要請に応じて、ユダヤ人やフランスのレジスタンス闘士に対する抑圧体制を整えた政治指導者の一人でもありました。この協力政策により、多くの人々が逮捕され、強制収容所へ送られることになりました。
戦後の裁判と最期
解放後のフランスにおいて、ラヴァルの責任は厳しく問われました。1945年10月9日、国家反逆罪により死刑判決を受け、銃殺刑に処されたのです。社会主義の出発点から対独協力の象徴へ――ラヴァルの生涯は、激動の20世紀前半におけるフランス政治の矛盾と悲劇を象徴しています。
生没年:1883年〜1945年
職業:政治家