「ピリップ2世が三部会(エタ・ジェネロ)を招集した」という見方がありますが、これは誤解です。歴史的事実として、フランスの三部会を招集したのはピリップ2世ではなく、ブルボン朝の国王ルイ16世でした。
1789年、ルイ16世による三部会の招集
ルイ16世が三部会を招集したのは1789年のことです。当時のフランスは、度重なる戦争やアメリカ独立戦争への支援などにより、国家財政は破綻寸前まで追い込まれていました。王はこの深刻な財政危機を打開するため、聖職者・貴族・平民という三つの身分の代表からなる三部会を開き、新税の承認などを図ろうとしたのです。
三部会招集がもたらした結果
しかし、三部会の開催はかえって国民の不満を表面化させることになりました。投票方法をめぐる対立の中で第三身分の代表たちは国民議会を結成し、バスティーユ牢獄襲撃へと至る一連の動きは、やがてフランス革命へと発展していきます。つまり、175年以上ぶりとなる三部会の招集は、フランス絶対王政の終焉を告げる大きな転換点となったのです。
なぜピリップ2世との混同が起きるのか
歴史上「ピリップ(フィリップ)2世」と呼ばれる君主は複数存在します。スペインの全盛期を築いたスペイン王フェリペ2世(在位1556年〜1598年)、あるいはカペー朝フランスで「尊厳王」と呼ばれたフィリップ2世(在位1180年〜1223年)などが有名ですが、いずれもフランス三部会の招集とは直接関係ありません。そもそも三部会が初めて開かれたのは1302年のフィリップ4世の時代であり、その最後の招集こそが1789年のルイ16世によるものでした。