フランソワ・アントワーヌ・ド・ボワシー・ダングラス(1756年〜1826年)は、フランス革命からナポレオン帝政、そして王政復古に至る激動の時代を生き抜いた政治家である。パリ高等法院の弁護士として出発し、最終的には帝国伯爵、さらにはフランス貴族院議員まで上り詰めたその生涯は、18世紀末から19世紀初頭のフランス政治史を映す鏡と言えるだろう。
弁護士から革命政治家へ
ボワシー・ダングラスは当初、パリ高等法院(パルルマン・ド・パリ)の弁護士として活動していた。1789年には三部会に選出されたものの、この段階ではまだ目立たない存在にとどまっていた。その後、国民公会に選出されると、「平原派」と呼ばれる穏健派の一員として、あえて目立たぬよう慎重な立ち回りを続けた。
恐怖政治への反対とテルミドール後の躍進
彼はロベスピエールらによる恐怖政治に対して明確に反対の姿勢を示した人物である。1794年7月のテルミドールのクーデター後には公安委員会に加わり、政治的な影響力を着実に拡大していった。国民公会議長を務めていた際には、1795年のプレリアール月の民衆蜂起に直面し、飢えに苦しむ群衆が議場になだれ込む混乱に対処しなければならなかった。この際、同僚議員の生首を槍の先に掲げられて脅されながらも微動だにしなかったという逸話は特に有名である。
共和暦3年憲法の起草と五百人院選出
彼は総裁政府体制の基礎となる共和暦3年憲法(1795年憲法)の起草において中心的な役割を果たした。その後は非常に高い人気を獲得し、実に72もの県から五百人院(下院)議員に選出されるという異例の栄誉に浴している。これは当時の政治家としては極めて珍しい信頼の証であった。
フルクチドール18日のクーデターと追放の危機
1797年9月4日(共和暦5年フルクチドール18日)、王党派一掃を目的としたクーデターが起こると、彼もまた王党派の一人として追われる身となった。しかし、何とか国外追放(ギアナへの移送)を免れ、危機を切り抜けることに成功した。
ナポレオン時代と晩年
その後、ナポレオン・ボナパルトによる恩赦を受けて政界に復帰する。護民院(トリビュナ)の議長を務め、やがて元老院にも加わった。帝政期には帝国伯爵に叙せられ、さらにブルボン朝の王政復古後にはフランス貴族院議員となり、1826年に生涯を閉じた。
革命の理想と現実政治の間で激しく揺れ動く時代において、ボワシー・ダングラスは一貫して穏健さと秩序を重んじる立場を貫いた。その柔軟でありながら芯のある政治手腕こそが、幾多の政変を生き延び、高い地位に到達できた所以であろう。