はじめに
カティン虐殺は、1940年にソ連によって約2万2000人のポーランド将校やインテリゲンツィア(知識人層)が処刑された悲劇的な事件です。この記事では、この歴史的事象に関する演習問題を4問用意しました。各問題の後には詳しい解説を付けていますので、歴史の復習や理解度の確認にぜひお役立てください。
問題
問題1
カティン虐殺では、約2万2000人のポーランド将校とインテリゲンツィアが処刑されました。この大量殺戮は、ドイツとソ連によるポーランド侵略・分割という文脈の中で行われました。この侵略と分割は、何に基づくものでしょうか。
a) デイトン合意
b) ヴェルサイユ条約
c) 独ソ不可侵条約(モロトフ=リッベントロップ協定)
d) ポーツマス条約
e) ジュネーヴ諸条約
問題2
カティン虐殺は、スターリンが1940年に承認したことで実行に至りました。ソ連の指導者は、ポーランド人捕虜がもたらすであろう脅威について、秘密警察(NKVD)の責任者から説得されていました。この人物とは誰でしょう。
a) ゲオルギー・ジューコフ
b) ラヴレンチー・ベリヤ
c) ヴャチェスラフ・モロトフ
d) ヴァシリー・ザイツェフ
e) イワン・セロフ
問題3
カティン虐殺が実行された当時、ポーランド人捕虜を収容していた収容所の名前は何でしょうか。
a) ダッハウ、ブーヘンヴァルト、トレブリンカ
b) ヤセノヴァツ、ブーヘンヴァルト、ラーフェンスブリュック
c) スタロビリスク、コゼリスク、オスタシコフ
d) ヤセノヴァツ、コゼリスク、カティン
e) カティン、スタロビリスク、トレブリンカ
問題4
将校たちの家族もまた、ソ連の弾圧政策の標的となりました。約6万人の人々が強制収容所へ送られました。その場所はどこでしょうか。
a) ウラル地方
b) カザフスタン
c) バルト地方
d) カフカス地方
e) ウクライナ
解答と解説
問題1の解答:c
独ソ不可侵条約(モロトフ=リッベントロップ協定)は、1939年8月23日にドイツとソ連の間で調印されました。この協定により、ヨーロッパで戦争が勃発した場合でも両国間の平和が保障されることになりました。さらに、秘密議定書において両国によるポーランドの分割が取り決められていました。実際にポーランドへの侵略は、1939年9月1日にドイツが、同年9月17日にソ連が実行したのです。
問題2の解答:b
ソ連の秘密警察(NKVD)の長官はラヴレンチー・ベリヤでした。彼は1940年3月、ポーランド人捕虜が「反革命組織のメンバーであり、釈放されれば必ずソ連と戦うだろう」という理由から、捕虜の処刑を決断しました。この論理によってスターリンを説得し、その結果、約2万2000人の捕虜に対する処刑命令が出されたのです。
問題3の解答:c
カティン虐殺で処刑されたポーランド人捕虜を収容していた3つの収容所は、ソ連領ウクライナにあったスタロビリスク、およびソ連領ロシアにあったコゼリスクとオスタシコフです。
問題4の解答:b
カティン虐殺で殺害されたポーランド人捕虜の家族たちは、カザフスタンの強制労働収容所(グラーグ)へ送られました。こうした措置はスターリン政権下ではごく一般的なものであり、1930年代を通じて数千人もの人々がシベリアやソ連各地の強制労働収容所へ送られていきました。