1857年のドレッド・スコット対サンドフォード事件(Dred Scott v. Sandford)において、ロジャー・B・テイニー首席判事が独立宣言を引用して自説を裏付けた、という見方がしばしば語られます。しかし、これは正確ではありません。テイニーは独立宣言を自説の支持根拠としては採用せず、合衆国憲法と制定法の解釈に依拠して、「アフリカ系アメリカ人は市民ではない。ゆえに連邦裁判所に訴えを起こすことはできない」と結論づけました。
前提を正す:独立宣言は「味方」にできなかった
テイニーが意見書の中で独立宣言に一切触れなかったわけではない点には注意が必要です。ただし、その言及は宣言を擁護するためではなく、むしろ宣言を黒人から切り離すために行われたものでした。彼は、「すべての人は平等に創られている」という有名な一節は、宣言採択当時、奴隷とされていたアフリカ系の人々を含む意図のものでなく、起草者たちの想定する「人民」の一部を黒人が構成していなかった、と主張しました。さらに「黒人は白人の尊重すべき権利を何ら持たないほど劣った存在とみなされていた」とまで述べています。つまり独立宣言は、結論を支える法的根拠ではなく、結論と矛盾しないよう歴史的に再解釈されたにすぎません。
結論の支柱は憲法と制定法の解釈
テイニーの中心的な論拠は、以下のような憲法上の分析でした。
- 建国当初、アフリカ系の人々(自由黒人を含む)は合衆国の「市民」あるいは主権者たる「人民」の一員とはみなされていなかった。
- 州市民権と連邦(全国)市民権は区別され、後者は憲法が定めるものであるため、黒人は連邦裁判所の管轄に基づく訴訟の当事者適格を持たない。
- したがって、ミズーリ州の黒人男性ドレッド・スコットは、連邦裁判所で自由を求めて訴える資格そのものがない。
さらにテイニーは、領域内での奴隷制を禁じたミズーリ協定(1820年)の規制条項が、奴隷所有者の「財産権」を正当な手続きなしに奪うものとして、憲法修正第5条に違反するとまで断じました。この部分は、南北戦争前の北部と南部の対立を決定的に先鋭化させることになります。
事件の経緯と判決の影響
ドレッド・スコットは、主人である軍医に連れられ、自由州のイリノイと、奴隷制が禁じられていたウィスコンシン準州(現在のミネソタ州フォート・スネリング付近)に滞在した後、奴隷制が認められるミズーリへ戻りました。自由を求めた彼の訴えに対し、最高裁は1857年3月6日、7対2の判決で敗訴を確定させました。マクリーンおよびカーティスの両判事は強い反対意見を述べ、とりわけカーティスは独立宣言や建国初期の諸州の実務を引きながら、黒人も市民たり得ると鋭く反論しました。
この判決は、アフリカ系アメリカ人を市民権の共同体から制度的に排除するものであり、国家分裂への道を加速させました。南北戦争後、憲法修正第13条(1865年)による奴隷制廃止、そして第14条(1868年)による出生地主義の市民権保障が明文化され、テイニー判決の核心は正式に否定されることになりました。
まとめ
要するに、テイニー首席判事は独立宣言を自説を支える根拠として使ったのではなく、憲法と制定法の解釈によって黒人の非市民性を導き、独立宣言については「黒人を含まない」という歴史解釈を施して退けた、というのが実態です。問いの前提そのものが、判決の実像と異なっていたのです。