ツァーリは第一次世界大戦で失脚したのか?
実は、ロシア皇帝(ツァーリ)ニコライ2世は、第一次世界大戦そのものによって直接打倒されたわけではありません。彼が退位に追い込まれたのは、1917年2月(ユリウス暦)に起こった二月革命です。この革命は、後に「ロシア革命」と総称される一連の政治変動の一部となり、約300年続いたロマノフ王朝の崩壊、そして最終的にはソビエト連邦の成立へとつながっていきました。
大戦がもたらした深刻な社会不安
とはいえ、第一次世界大戦が皇帝失脚の最大の背景であったことは間違いありません。開戦当初は愛国的な熱狂に包まれたロシアでしたが、戦争が長期化するにつれて状況は急速に悪化していきました。
- 前線での敗北の重積: 装備や補給の不足により、ロシア軍は多大な犠牲を出しながらも決定的な勝利を掴めませんでした。
- 後方の疲弊: 食料や燃料の不足、激しいインフレーションが都市部の市民生活を直撃しました。
- 指導力への不信: 1915年、ニコライ2世は自ら軍の最高司令官に就任しましたが、これにより敗戦の責任が皇帝個人に向けられることになりました。
- 宮廷への疑念: 怪僧ラスプーチンが皇后アレクサンドラを通じて政治に影響力を及ぼしたことが、王朝の威信を大きく損ないました。
二月革命と皇帝の退位
1917年2月(グレゴリオ暦では3月)、首都ペトログラード(現サンクトペテルブルク)ではパンの不足をきっかけにストライキとデモが拡大し、ついには駐留部隊までもが反乱に加わりました。もはや騒乱を鎮圧する力は残されておらず、ニコライ2世は同年3月15日(グレゴリオ暦)、帝位からの退位を表明します。ここにロマノフ王朝は幕を下ろしました。
ロマノフ王朝の終焉とソ連の成立
皇帝退位後は臨時政府が樹立されましたが、大戦継続の方戦継続の方針や土地改革の遅れに対する国民の不満は収まりませんでした。同年11月(ユリウス暦10月)にはボリシェヴィキが権力を掌握する十月革命が起こり、1918年7月には皇帝一家が処刑されます。こうした一連の動乱を経て、1922年にソビエト連邦が正式に成立することとなったのです。
まとめると、第一次世界大戦はツァーリ体制を崩壊へ追い込む最大の要因の一つでしたが、皇帝が実際に失脚したのは、大戦の最中である1917年の二月革命においてだったのです。