扇動法の時期におけるジェファーソンの立場
1798年に扇動法(Sedition Act)が成立した当時、トーマス・ジェファーソンは実は政府の要職に就いていました。彼は1796年の大統領選挙でジョン・アダムズに次ぐ得票数を獲得しており、1797年から副大統領として在任していたのです。
政権内にいた野党指導者
当時の選挙制度では、大統領選挙で得票数2位となった者が自動的に副大統領に選ばれる仕組みでした。そのため、連邦党のジョン・アダムズ政権のもとに、野党である民主共和党の指導者ジェファーソンが副大統領として在任するという、今日から見れば奇妙な政治構図が生まれていました。
ジェファーソンは外国人・治安諸法(Alien and Sedition Acts)、とりわけ政府批判を処罰対象とする扇動法に強く反対していました。しかし、副大統領という公職にある身であったため、その反対活動は主に秘密裏に行われました。
ケンタッキー決議への関与
1798年、ジェファーソンは匿名で「ケンタッキー決議」の起草に関わりました。この文書では、連邦議会が憲法上の権限を超える法律を制定した場合、各州がそれを無効化できるとする考え方が示され、中央集権的な連邦政府の権限拡大に対する強い牽制となりました。
まとめ
つまり、扇動法の時期において、ジェファーソンは政府職を離れてバージニア州の自宅モンチセロに隠棲していたわけではなく、現職の副大統領として表向きは政府の一員でありながら、裏では野党の精神的支柱として抵抗運動を展開していたのです。この二重の立場こそが、この時代のアメリカ政治の対立構造を象徴的に物語っています。