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ジョージ1世はどのようにしてイギリス王になったのか?名誉革命から即位までの経緯

グレートブリテン王ジョージ1世(George I)が王位についたのは、伝統的な父子相続によるものではありませんでした。彼の即位は、1688年の「名誉革命」と呼ばれる一連の複雑な政治的出来事、そして1701年に制定された「王位継承法」によって実現したものです。ここでは、その経緯を順を追って解説します。

背景:17世紀イングランドの宗教対立

17世紀のイングランドでは、プロテスタントとカトリックの対立を背景に、宗教的・政治的な激動の時代が続いていました。1685年に即位したジェームズ2世は熱心なカトリック教徒であり、カトリック信者に宗教的自由を与えようとする政策を推し進めました。

こうした動きに対し、プロテスタントの支配体制が揺らぎ、カトリックの勢力が拡大することを恐れた多くの貴族や政治家は、強い警戒感を抱くようになりました。

「不死身の七人」による秘密の招待

そこで、イングランドの有力な貴族・議員7名――後に「不死身の七人(Immortal Seven)」と呼ばれる人々――は、オランダの総督でプロテスタントだったオラニエ公ウィリアムと、その妻メアリー(ジェームズ2世のプロテスタントの娘)に対し、密かに書簡を送りました。その内容は、イングランドへ渡り、王位を継いでほしいという招待でした。この動きには、カトリック化の進行を恐れる多くの人々の支持がありました。

名誉革命の成立(1688〜1689年)

1688年11月、ウィリアムは大軍を率いてイングランドに上陸しましたが、大きな抵抗を受けることはありませんでした。ジェームズ2世はフランスへ逃れ、イングランド議会は王位が空位であると宣言します。そして1689年2月13日、ウィリアムとメアリーはイングランド・スコットランド・アイルランドの国王および女王として、共同統治者として即位したのです。

1701年王位継承法の制定

名誉革命が成功裏に終わった後、イングランド議会は1701年に「王位継承法(Act of Settlement)」を可決し、プロテスタントによる王位継承を確実なものにしました。この法律により、カトリック教徒、およびカトリック教徒と結婚した相続人は、王位を継承できないことが定められました。

ジョージ1世の即位

ウィリアム3世(オラニエ公ウィリアム)とメアリー2世の間に生存する子どもはいなかったため、王位継承法は、最も近いプロテスタントの継承者として、ジェームズ1世の孫娘であるハノーヴァーのゾフィーを指定しました。

しかし、ゾフィーは1714年、ステュアート朝最後の君主となるアン女王の死去のわずか2か月前に亡くなってしまいます。

それでも王位継承法の規定に基づき、ゾフィーの息子であるハノーヴァー選帝侯ゲオルク・ルートヴィヒ(ジョージ・ルイス)は、1714年8月1日のアン女王の崩御に伴いイギリス王位を継承し、「グレートブリテン王ジョージ1世」となったのです。

まとめ:政治的思惑が生んだ新王朝

ジョージ1世の即位は偶然の産物ではなく、名誉革命による政体の転換、プロテスタント優位を守るための王位継承法、そしてハノーヴァー家との血縁という複数の要素が組み合わさった結果でした。こうしてイングランド・スコットランド・アイルランドにおける宗教的安定が図られるとともに、イギリス史上にハノーヴァー朝の時代が幕を開けたのです。