メロヴィング朝とカロリング朝は、中世ヨーロッパを代表する二つの王朝であり、歴史と王権のあり方を大きく形作りました。両王朝には多くの違いがあるものの、クローヴィスやカール大帝といった輝かしい君主たちによって彩られています。今回は、メロヴィング朝からカロリング朝への移行期に何が起きたのかを振り返ります。
メロヴィング朝の興隆
クローヴィスの神話上の祖先とされるメロヴェクは、王位に就いたことでメロヴィング朝を創設しました。「神話上」という表現がふさわしいのは、サリア系フランク人の第二代の王である彼が、「女王と神との間に生まれた」と伝えられているためです。この伝説以外にも彼にまつわる逸話は数多くありますが、実際にその存在が証明されているわけではなく、メロヴィング朝の起源が彼にあるという確証もありません。
6世紀の偉大な年代記作者であるトゥールのグレゴリウスは「誰がフランク人最初の王だったのか?」と問いかけながら、その答えは分からないと述べています。いずれにせよ、王朝そのものは確かに存在しました。メロヴィング朝の起源は今日でも謎に包まれており、こうした君主制が突如として出現した経緯を説明するのは容易ではありません。メロヴィング朝はローマ帝国の衰退に乗じてガリアへと進出し、後のフランス王国の基盤となる体制を築き上げたのです。
一方で、メロヴィング朝に燦然たる足跡を残した人物がいます。それがクローヴィスです。彼は歴史上最も影響力のある王の一人で、キルデリク1世の子として生まれ、何よりも洗礼を受けたことで知られています(受洗の年には諸説あります)。真の征服者として、彼の治世中にフランク人の世界は規模を倍増させました。クローヴィス以降もメロヴィング朝の王の一覧は長く続きますが、クローヴィスが獲得した栄光を超える王はついに現れませんでした。
メロヴィング朝の衰退
メロヴィング朝の時代、フランク王国は西ヨーロッパにおける最大の軍事的・政治的勢力となりました。軍事的優位性と戦争技術への深い知識によって、メロヴィング朝は短期間でガリアの大部分を支配下に置きました。しかし、この王朝はわずか3世紀足らずで衰退し、人々に愛されないものとなっていきます。
貴族たちは反乱を起こし、この強大な王国を統治する君主たちは「怠惰王(ロワ・フェネアン)」と呼ばれるようになりました。衰退の発端はダゴベルト1世の後継者たちにあります。639年に彼が死去すると、王国は息子たちの間で分割されました。シグベール3世がアウストラシアを、クローヴィス2世がネウストリアとブルグントを受け継ぎます。王国の分裂は貴族たちに権力への道を開き、彼らが次第に実権を握ることになりました。君主たちは、宮宰や司教などフランク諸王国の真の支配者となった者たちに王権が弱体化していくのを、為す術もなく見守るしかありませんでした。権力も富も持たなかったこれらの「怠惰王」たちは、先代の君主たちの栄光を汚す結果となりました。ダゴベルト1世の治世だけは黄金時代として人々の記憶に刻まれ、「善き王」の伝説を生み出しました。そして751年、メロヴィング朝はついに滅亡し、カロリング朝に道を譲ることとなります。
カロリング朝の勝利
メロヴィング朝の王権が衰えるにつれ、政治的な大転換が起こります。宮宰(マイヨール・ド・パレ)の役割は決定的な権力を持つようになり、王軍の指揮、宮廷裁判所の主宰、さらには恣意的な税の徴収まで行うようになりました。宮宰の地位は、あらゆる権威を握る真の政府の長へと変貌を遂げたのです。その中でも他を圧倒して頭角を現したのが、小ピピン(ピピン短身王)でした。
生来野心家だったこの政治家は、751年に最後のメロヴィング朝の王キルデリク3世を廃位し、自ら王であることを宣言しました。同年、彼はエーヌ県のソワソンの町で王として戴冠します。こうしてメロヴィング朝からカロリング朝へと時代は移りました。しかし、貴族たちから正当性を得ることは容易ではありませんでした。そこで754年、彼は教皇ステファヌス2世(エティエンヌ2世)のもとサン=ドニで再び戴冠式を行います。教皇は現王朝以外からの王選出を認めない立場を示し、こうして小ピピンはカロリング家全体の中で王としての正統性を確立したのです。
ところで、「メロヴィング朝」の名前の由来は分かりましたが、「カロリング朝」という呼称についてはどうでしょうか。カロリング朝の名は「Carolus(カロルス)」という言葉に由来します。これはカール・マルテルとその孫である有名なカール大帝(シャルルマーニュ)、すなわちカロリング朝の王たちを指す言葉なのです。

