歴史物語

海賊に艦を奪われたら?19世紀のアメリカ海兵隊は、すでに答えを知っていた……

1803年10月、地中海。トリポリ沖でバーバリー海賊がアメリカ海軍のフリゲート艦USSフィラデルフィアを拿捕した。建国間もないアメリカは、その短い歴史において前例のない行動に出る。失った艦を奪還、あるいは破壊するため、海兵隊の特別部隊を派遣したのだ……。

18世紀末から19世紀初頭にかけて、バーバリー海賊は地中海の交易路における真の恐怖だった。彼らの船は北アフリカの港、いわゆる「バーバリー海岸」――トリポリ、オラン、チュニス、アルジェ――を拠点としていた。

ムスリムの海賊たちはときに北大西洋の北端まで遠征することもあった。略奪の標的は商船にとどまらず、スペイン、ポルトガル、フランス、オランダ、イギリス、さらにはアイスランドの沿岸集落にまで及んだのである。

推定によれば、16世紀から19世紀の間に80万人から125万人ものヨーロッパ人が誘拐されたという。彼らはモロッコやアルジェリアの奴隷市場で売買され、時に高額な身代金と引き換えに解放されることもあった。さらにバーバリー諸国は、安全な航行と引き換えにヨーロッパ諸国が支払う貢納金からも莫大な利益を得ていた。フランスやイギリスといった海洋大国さえも例外ではなかったのだ。

海賊に艦を奪われたら?19世紀のアメリカ海兵隊は、すでに答えを知っていた……

海賊に奴隷として連行されるキリスト教徒の行列(出典:パブリックドメイン)。

海賊の標的となったアメリカ人

1784年10月、モロッコの海賊が最初のアメリカ船、ブリガンティン「ベッシー号」を拿捕した。この時はスペイン人の仲介によって船の解放交渉がまとまった。スペイン人はまた、同様の事件を二度と避けるためにモロッコへ貢納金を支払い続けるよう、アメリカ当局に助言してもいる。

その翌年の1785年7月には、今度はアルジェの海賊の手に2隻が落ちた。事態ははるかに深刻だった。トリポリ、アルジェ、オラン、チュニスは乗員と船舶の解放に66万ドルを要求したが、アメリカの交渉団が用意できたのはわずか4万ドルだった。船員たちは10年以上もの捕虜生活を強いられることになる。1795年、アメリカはアルジェとの合意に達し、115名の解放と引き換えに100万ドル超という巨額の資金を支払った。この金額は当時のアメリカの国家予算の約10%に相当した!

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地中海のバーバリー海岸。アメリカ人船員たちの悲劇はここで繰り広げられた。1806年のアフリカ地図より(出典:パブリックドメイン)。

ヤンキー、地中海へ向かう

アメリカ人の忍耐は徐々に尽きていった。自前の海軍を建設し、地中海における国益を守るべきだという声が日増しに高まっていた。この問題が極めて重要だったのは、当時のアメリカ輸出の4分の1がこの地域に向けられていたからだ。

1801年、海賊問題の武力解決を支持するトマス・ジェファーソンがアメリカ大統領に就任した。トリポリのパシャ、ユースフ・カラマンリーは新政権に対して22万5000ドルの貢納金を要求した。これが拒否されると、彼はアメリカに宣戦布告したのである。これを受けてアメリカは、エドワード・プレブル提督指揮下の戦隊を地中海へ派遣した。

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トマス・ジェファーソン大統領。海賊に金を払うのではなく戦うべきだと決断したのは他ならぬ彼だった(レンブラント・ピールによる肖像画、出典:パブリックドメイン)。

不運な追跡――USSフィラデルフィア座礁

アメリカ海軍の艦艇は海賊船との数々の砲撃戦に勝利し、バーバリー海岸の封鎖を実施したが、水兵たちにはこの海域の正確な海図がなかった。そしてそれは、まもなくアメリカに多大な代償をもたらすことになる。

1803年10月31日、ウィリアム・ベインブリッジ艦長指揮下のフリゲート艦USSフィラデルフィアは、小型の海賊船を追跡中に座礁してしまった。トリポリ要塞の砲火と海賊艦隊の攻撃を受けながら懸命な離礁作業が試みられたが、船は微動だにしなかった。

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座礁し、さらなる災難へと向かうUSSフィラデルフィア(出典:パブリックドメイン)。

しばらくして潮の干満によって船体は浮上したが、脱出するにはすでに遅すぎた。ベインブリッジ艦長は306名の水兵とともに捕虜となった。40門の大砲を備えた近代的な艦であるフィラデルフィアは、海賊艦隊に編入されようとしていた。プレブルはそれを許すつもりはなかった。フリゲート艦は奪還されねばならず、それが不可能なら破壊されることが決定されたのだ。

デキャター中尉の無謀とも言える計画

この危険な任務に志願したのは、若く大胆な士官、スティーブン・デキャター中尉だった。彼はアメリカ戦隊の中で最も優秀で屈強な84名を選び抜いた。彼らは捕獲済みの小型海賊船に乗り込み、マルタの商船に変装してトリポリ港へ侵入する予定だった。デキャターはさらに、必要に応じて港の衛兵の目を欺くためのシチリア人水先案内人を確保することにも成功していた。

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ジョン・ウェズレー・ジャーヴィスによるスティーブン・デキャターの肖像画。その闘志が一目で伝わってくる(出典:パブリックドメイン)。

1804年2月16日の夜、「マルタ籍」の船に乗ったアメリカ人たちはトリポリに入港した。小舟はフィラデルフィアの舷側へ寄り、シチリア人の水先案内人は海賊たちに、嵐で錨を失ったため夜を明かすべく大型船に横付けしたのだと説明した。説明は一見説得力があったが、一人の海賊が何か不審なものを目にしたらしい。闇夜を切り裂くように叫び声が響いた――「アメリカ人だ!」

白兵戦突入!

だが、反応するにはもう遅かった。ソロモン・レン軍曹の指揮する8名の海兵隊員がフリゲート艦になだれ込んだ。物音を立てぬよう幅広の剣、斧、ナイフだけで武装した彼らは、フィラデルフィアに残された少数の衛兵に一瞬の猶予すら与えなかった。船は瞬く間に制圧されたのである。

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本記事で述べた作戦の6か月後、バーバリー海賊と戦うデキャター(出典:パブリックドメイン)。

しかしデキャター中尉は、フリゲート艦を安全に港外へ持ち出すことは不可能だと判断し、破壊を命じた。わずか20分のうちに、フィラデルフィアの要所に火が放たれた。トリポリ沿岸砲台の激しい砲撃にもかかわらず、アメリカ兵たちは無事外洋へ退却した。撤退は、海賊が追撃してきた場合に即座に介入できるよう待機していた巡航艦USSサイレンによって援護されていた。

アメリカ艦隊初の「コマンド」作戦

作戦は完全な成功を収めた。フィラデルフィアは破壊され、作戦中に犠牲となったアメリカ人は一人もいなかった。イギリスの名将ホレーショ・ネルソン提督さえもデキャターの勇気と機転を称賛し、これを「この時代最も大胆な功績」と評したという。中尉はアメリカで国民的英雄となり、この武功の報酬としてコマンダー(中佐)に昇進した。

海賊に艦を奪われたら?19世紀のアメリカ海兵隊は、すでに答えを知っていた……

スティーブン・デキャターは、特別発行の20ドル銀貨の図柄にまでその姿を刻まれた(出典:パブリックドメイン)。

一方、19か月以上にわたり捕虜生活を強いられたフィラデルフィアの乗員たちだけは、喜ぶ理由がなかった。1805年6月4日、パシャのカラマンリーとアメリカは平和条約に調印し、双方は捕虜交換などを含む義務を負った。しかしこの合意は、バーバリー海賊問題そのものの解決にはつながらなかった。

10年後、アメリカ艦隊は再びこの海域へ戻ってくる。指揮を執ったのはいうまでもなく、コモドール(准将)となったスティーブン・デキャターだった。しかしそれは、また別の記事でお話ししよう。