銃殺、爆破、そして生きたまま焼かれた捕虜たち
彼らは銃殺され、爆破され、納屋の中で生きたまま焼き殺された。それは一体誰のことなのか?答えは、1939年9月に捕虜となったポーランド兵たちである。彼らはハーグ条約によって保護されるはずだったが、ドイツ軍はそれを意に介することなく、最悪の犯罪を重ねていった。
本誌ではこれまで、9月作戦(ポーランド侵攻)においてドイツ軍が民間人に対して犯した最大級の犯罪について取り上げてきた。今回は、ポーランド軍の何千人もの将兵が犠牲となった忌まわしい行為に、より深く迫ってみたい。1939年9月にドイツ国防軍(ヴェーアマハト)がポーランド兵に対して示した、その途方もない規模の残虐性を理解することは容易ではない。
『1939年の電撃戦 ドイツ対ポーランド』の著者である歴史家ヨッヘン・ベーラー(Jochen Böhler)によれば、その原因は、私たちの祖父母の世代が次のように見られていたことにあった。
「まったく対等な相手とは見なされていなかった。スラブ人やユダヤ人は最大限の警戒をもって扱われるべきだとドイツ軍は考えていた。それは、これらの民族が本来最も低い資質を持つとされ、とりわけ欺瞞的だという偏見によるものだった」
生きたまま焼かれたタトラ高地連隊の兵士たち
このような思考がもたらす結果を待つ必要はほとんどなかった。ドイツの歴史家は、侵略者が犯した犯罪の長いリストを挙げている。例えば1939年9月10日、ピアセチュノ(Piaseczno)の教会の中庭では、捕虜となった30名のポーランド兵のうち半数が頭部を撃たれて殺害された。
その10日後にはマイダン・ヴィエルキ(Majdan Wielki)で、ドイツ兵1名の死亡への報復として、40名以上のポーランド兵が射殺された。さらに9月18日には、マゾフシェ地方のシラドヴォ(Śladów)において、「ポズナン」軍および「ポモージェ」軍に所属し、ブズラの戦いで捕虜となった150名の兵士が侵略者によって処刑された。同時に150名の民間人も殺害されている。

1939年9月、ドイツ軍は数千人のポーランド軍捕虜を殺害した(出典:パブリックドメイン)
また、捕虜の集団が納屋やその他の建物の中で生きたまま焼かれたという記録も残っている。こうした事件の一つは、ドロホブィチ近郊のウリチ(Urycz)で発生した。1939年9月末、所属不明のドイツ国防軍部隊が、第4タトラ狙撃兵連隊の約100名の兵士をこの方法で殺害したのである。
同様に、あるいはそれ以上に怪物じみた犯罪の例として、イェジ・シラスキ(Jerzy Ślaski)が挙げているのが、モドリン要塞の守備隊に対して「ケンプフ」装甲師団のドイツ兵が行った血なまぐさい報復である。著書『戦うポーランド』には次のように記されている。
「ポーランド兵が武器を置いた直後、[ドイツ軍]は彼らの残忍な殺害を始めた。彼らは掩蔽壕の中で、野原で、塹壕の中で殺され、負傷者も殺害された。ザクロチン(Zakroczym)のユダヤ人墓地周辺で捕らえられた捕虜の集団には、ガソリンがかけられ、火をつけられた。この虐殺は数時間に及び、約600名のポーランド兵がそこで命を落とした」
動くな、撃つぞ ― トポルノ、セロツク、ザンブルフでの犯罪
先述のヨッヘン・ベーラーは著書『ポーランドにおけるヴェーアマハトの犯罪 1939年9月 総力戦』の中で鋭く指摘している。「一時的に集合地点や収容所に収容されていても、ポーランド人捕虜は暴力から守られなかった」と。その原因は、些細な理由でも平気で発砲する衛兵たちの存在にあった。
実際、9月3日、ヴィスワ川沿いのトポルノ(Topolno)では、逃亡しようとしたという口実のもと、ドイツ軍は機関銃と装甲車で発砲した。捕虜の損害は甚大で、約80名が死亡した。近郊のセロツク(Serock)では、9月4日から5日にかけての夜、第604軽道路建設大隊の兵士たちがさらに84名のポーランド兵を射殺した。

捕虜収容所の中でさえ、ポーランド兵は安全を感じることはできなかった(出典:パブリックドメイン)
もう一つの虐殺は9月11日、ザンブルフ(Zambrów)で起こった。地元兵営の広場には、第18歩兵師団の捕虜約4,000名が集められ、「席を立ったら射殺する」と告げられていた。夜中、何らかの理由により、馬車の群れが眠っている兵士たちのいる広場へ突っ込んだ。
その結果生じたパニックの中で、ドイツ軍は機関銃と小火器で発砲し、踏み潰されまいとするポーランド兵たちに向けて撃ち続けた。虐殺は10分間続き、ドイツ兵自身にも負傷者が出て初めて終了した。生き残ったポーランド兵たちは再び動くことを禁じられ、負傷者や瀕死の者には一切の手当てが施されなかった。
虐殺の規模が明らかになったのは翌朝のことであった。約100名のポーランド人捕虜が負傷し、さらに同数が死亡していたのである。公式のドイツ側発表では、「脱走の試みにより約100名が死亡した」とされた。
シュチュチン ― 「名誉ある」国防軍による報復
翌日、すなわち9月12日には、ドゥンブロヴァ・タルノフスカ近郊の村シュチュチン(Szczucin)にある学校内の負傷捕虜収容所で、次なる犯罪が実行された。口実となったのは、尋問を受けていた第5タトラ狙撃兵連隊のブロニスワフ・ロマニエツ(Bronisław Romaniec)中尉が、ガラ(Galla)曹長を射殺した事件である。ここでもまた、ドイツ兵1名の死に対する罰として、数十名のポーランド人が抹殺された。

イグナツィ・モシチツキ大統領が第5タトラ狙撃兵連隊の閲兵を行う。ブロニスワフ・ロマニエツ中尉はこの部隊に所属していた(出典:パブリックドメイン)
報復として、シュチュチンに駐屯していたドイツ国防軍の兵士たちは、建物の中に手榴弾を投げ込み、そこにいたポーランド人たちに向けて発砲した。燃え盛る学校から脱出しようとした者たちは射撃の標的となった。この虐殺により、約40名のポーランド兵と約30名の民間避難民が死亡した。しかしこれで終わりではない。ドイツ軍は、殺害された遺体の埋葬のために連れてこられたユダヤ人25名をも射殺したのである。
特筆すべきは、「反乱」の鎮圧に参加した志願兵たちが、鉄十字章を授与されたと伝えられている点である。少なくとも、当時の出来事に参加したドイツ人の一人が戦後にそう証言している。ヨッヘン・ベーラーが強調するように、これらの犯罪には共通の構造が見られる。
「ポーランド兵が捕虜として犠牲となった犯罪は、それぞれ大きく異なっている。[...]。それでもなお、その態度には類似のメカニズムが働いていたことが見て取れる。ドイツの将校や兵士たちは[...]、暴力を用いることにほとんど躊躇しなかった」

ヨッヘン・ベーラーによれば、ポーランド人捕虜に対する犯罪がこれほど大規模になったのは、「ドイツの将校や兵士たちが暴力の使用に対してほとんど抵抗感を持たなかった」ためである(出典:パブリックドメイン)
恐るべき現象の規模
上述の事例は、決して単発の、孤立した過剰行為と見なすことはできない。ナチス犯罪調査全国委員会(ポーランド)が収集した目撃者の証言は、それが1939年9月、ドイツ国防軍の占領下のあらゆる地域で起こった普遍的な現象であったことを証明している。
遺憾ながら、ドイツ軍によって殺害されたポーランド兵の正確な数を、私たちが永遠に知ることはおそらくないだろう。しかし、疑いなく数千人に上っていたことは確かである。これらの犯罪の加害者の圧倒的多数は責任を問われることなく裁判にかけられることもなく、英雄としてナチス支配下の祖国へ帰還していった。そして彼ら自身もまた、自分たちを英雄だと信じていたのである。
参考文献
- Jochen Böhler, The invasion of 1939. Germany against Poland, Horizon 2015.
- Jochen Böhler, Wehrmacht crimes in Poland. September 1939. Total war, Społeczny Instytut Wydawniczy Znak 2009.
- Ryszard Rybka, Kamil Stepan, Officer's Yearbook 1939, Academic Bookshop 2006.
- Jerzy Ślaski, Fighting Poland, PAX Publishing Institute 1990.