バタウィ族の反乱とは
西暦69年から70年にかけて起こった「バタウィ族の反乱」は、オランダの国民史において最も有名な物語のひとつです。今日でも、自転車ブランドの「バータス(Batavus)」、造船所「バタヴィアヴェルフ(Bataviawerf)」、駅伝大会「バタヴィエーレンレース」など、このバタウィ族にちなんだ名称が文化の随所に残っています。では、なぜこの物語はこれほどまでに有名なのでしょうか。
鍵を握るのは、ユリウス・キウィリス(Julius Civilis)という人物です。ローマの歴史家タキトゥスの著書『歴史』(Historiae)には、彼について次のような記述があります。タキトゥスによれば、ユリウスは王の血を引くバタウィ人であり、「蛮人にしては想像以上に聡明な男」と評されています。つまり、かなりの切れ者だったようです。ユリウスは長年ローマ軍の将校として務め上げた後、バタウィ反乱の指導者となります。そしてその手腕は、決して名ばかりのものではありませんでした。
タキトゥスが描く反乱
反乱については数多くの物語や伝説が語り継がれています。しかし、ここに奇妙な点があります。実は、この反乱に関する唯一の史料こそがタキトゥスの記述なのです。しかも彼は、バタウィ人に対して必ずしも好意的ではありません。果たして歴史は、私たちが作り上げてきたものほど劇的なのでしょうか。ここで、反乱の物語を簡単に振り返ってみましょう。
謀反の疑いをかけられて
皇帝ネロ(在位54〜68年)の時代、ユリウスの華々しい軍歴は突如として幕を下ろします。弟ユリウス・パウルスとともに、低地ゲルマニア駐留ローマ軍司令官フォンテイウス・カピトによって、謀反のかどで告発されたのです。タキトゥスは事件の詳細を語っていませんが、二人が無実であったことは確かだと考えています。
弟パウルスはその場で処刑されてしまいます。一方、ユリウス自身は辛うじて難を逃れたものの、裁きを受けるためにローマへ向かわねばなりませんでした。幸いなことに、当時のローマ皇帝たちは自らの命さえ危うい状況にありました。ローマは内乱と帝位争いに明け暮れ、皇帝はめまぐるしく交代していきます。ユリウスがローマに着いた頃には、すでに別の皇帝が即位していました。ネロの後継者ガルバはユリウスへの訴追を取り消し、彼は北の故郷へ帰還することを許されます。しかし弟を奪われた怒りは消えることがなく、ユリウスはローマ人への復讐を誓う狡猾な計画を胸に秘めるのでした。
徴兵制と理不尽な要求
ライン川デルタに戻った頃には、ローマ人とバタウィ人の良好な関係は冷え切っていました。「四皇帝の年」と呼ばれる69年にウェテリウス帝が即位すると、新任の政治家にありがちなことに、彼はそれまでの規則や協定を次々と覆します。バタウィ人との間では、ローマ軍への志願兵制度が廃止され、徴兵制が敷かれることになりました。高齢のバタウィ人男性も召集の対象となり、少年たちまで呼び出されます。もっとも彼らは戦闘員ではなく、従僕として仕えさせられるためでした。ウェテリウスの登場により、バタウィ人は突如として「被支配民」扱いされるようになったのです。誇り高いバタウィ民族は、ついに我慢の限界に達しました。
森の中での密議
バタウィ人の不満が高まっていることを知ったユリウス・キウィリスは、復讐心を胸に抱いたまま、森の中で宴を催します。多くのバタウィ貴族を招いたこの席上、彼はある大胆な計画を打ち明けました。自らの鼓舞する指揮のもと、いくつもの陽動作戦を駆使しながら、バタウィの領土からローマ人を追い出そうというのです。貴族たちはたちまち熱狂しました。その夜のうちに、出席者全員が大義への忠誠を誓います。こうして反乱が誕生したのです。
反乱の勃発
69年末、ナイメーヘン近郊でバタウィ人と二個ローマ軍団が衝突します。ローマ軍側に属していたバタウィ人傭兵部隊が一斉に故国側へ寝返ったため、ローマ軍は敗北を喫しました。これはローマ人にとって完全な不意打ちでした。
反乱は目覚ましい成功を収めます。バタウィ人はローマから領土を次々と奪い取っていきました。ところが、ローマでウェスパシアヌス帝が権力を握ると状況は一変します。彼は圧倒的な兵力を派遣し、クサンテンでの会戦によって反乱の拡大を食い止めたのです。為す術を失ったユリウスは、ローマ側の和平交渉の申し入れを受け入れるほかにありませんでした。両者の代表団は古い橋の両岸に分かれて対面し、そして……。惜しくも、ここでタキトゥスの物語は途絶えてしまいます。結末がどうなったのかは正確には分かっていませんが、研究者たちは、両者の間に寛容と協調による旧来の関係が回復されたのだろうと推測しています。
タキトゥスの描いた像
タキトゥスの物語の中で、バタウィ人もユリウスも、決して良い印象を持たれてはいません。彼は歴史家であると同時に、ローマ人の視点で筆を執る一介のローマ人でもあったのです。文明化されたローマ人との対比で、彼はバタウィ人を「蛮人」と呼びました。そしてユリウスは——タキトゥスが相応の評価を与えてはいるものの——あくまでローマの敵でした。それにもかかわらず、タキトゥスのかなり否定的な記述を前にしても、この物語は後世に華々しい命を吹き込まれていくことになります。いったいなぜでしょうか。
バタウィ人、名声を得る
バタウィ族の反乱の顕彰は、すでにルネサンス期、タキトゥスの著作が広く知られるようになった頃に始まっていました。作家コルネリウス・アウレリウスの『分割年代記』(1517年)の中で、バタウィ族の反乱が初めて登場します。アウレリウスには、この物語を際立たせたい理由がありました。「これは、ホラント人がローマ人の中で示した武勇と力と騎士道精神、そして世界の他の諸民族に優る実績を知ってもらうためにのみ語られるものである」。つまり彼は、読者にバタウィ人の活躍を強く意識させたかったのです。詩人ヨースト・ファン・デン・フォンデルもまた、バタウィ族の反乱に言及しています。1659年、ゴーファルト・フリンクの絵画に触発された彼は、ユリウス・キウィリスを国民的英雄第一号であるオラニエ公ウィレムになぞらえました。
称賛したのは文学者だけではありません。バタウィ族の反乱は画家たちにとっても人気の題材でした。レンブラント・ファン・レインは、ユリウスが貴族たちと夜の密議を交わす場面を描いています。またフェルディナント・ボルは、バタウィ人とローマ人の交渉の場面を一枚のカンヴァスに描き出しました。
アイデンティティの証明
ルネサンス期から黄金時代にかけて、バタウィ人、とりわけ反乱の物語への関心はますます高まっていきます。それはなぜなのでしょうか。
独立国家としてのネーデルラント(オランダ)が形成される過程で、人々は独自のアイデンティティの確立を次第に重視するようになりました。「アイデンティティ」は、共有された歴史——できれば誇れるような歴史——によって部分的に形づくられます。黄金時代のオランダ人は、このバタウィ人から自らのアイデンティティを導き出し、正当化したのです。多くの人々はバタウィ人を、オランダ人の遠い祖先とみなしました。反乱は、この誇り高き祖先たちが冷酷な専制に対して示した英雄的な抵抗を映し出していたのです。
この歴史の中で、いくつかの部分が誇張され、あるいは省略されていることは、当然のこととして受け入れなければなりません。ユリウスはおそらく、語られるような英雄ではなかったかもしれません。事実はもう少しニュアンスに富んでいたかもしれません。しかし、それは問題ではありません。私たちにとって、ユリウス・キウィリスとバタウィ族の反乱の物語は——今なお——美しい歴史の一部であり、新たなハリウッド超大作映画にふさわしい題材なのです。