オランダの歴史学者バルト・ファン・デル・ブーム(Bart van der Boom)氏が、著書『我々は彼らの運命を何も知らなかった――普通のオランダ人とホロコースト』により、リブリス歴史賞(Libris Geschiedenis Prijs)を受賞しました。受賞には2万ユーロの賞金が伴います。
審査員は次のように評しています。「これは困難で繊細なテーマです。それにもかかわらず、ファン・デル・ブーム氏は決して押しつけがましくありません。まるでガイドのように読者を案内しながら、きわめて説得力のある形で論を展開しています」。
現在の歴史学への「抗議」としての本
この本は、一種の抗議の書として読むことができます。その矛先は、今日の歴史学界に見られるある傾向――「普通のオランダ人は無関心な傍観者であり、殺戮を遂行するSS隊員と大差なかった」とする見方――に向けられています。
初期の研究者たちは正しかったのか
1950年代から60年代にかけてユダヤ人迫害について執筆した歴史家たちは、普通のオランダ人は、東方へ送られたユダヤ人同胞に何が待ち受けているのかを知らなかった、という点で意見が一致していました。しかし年月が経つにつれ、この見方は次第に信じられなくなり、2006年には対極ともいえる「有罪かつ反ユダヤ主義的な傍観者」という像が登場しました。
ファン・デル・ブーム氏の研究は、ホロコーストに関する最初期の書き手たちこそが正しかったことを実証しようとするものです。そのために氏は、識字層・非識字層を問わず、ユダヤ人と非ユダヤ人の日記合計164冊を資料として用いました。
「ポーランドへ労働に行く」という共通認識
ユダヤ人であるか否かを問わず、オランダ人は、戦争が続く限りユダヤ人はポーランドへ労働に行かされるだけだと考えていました。そこでの生活は過酷だろうものの、潜伏生活よりも生存の見込みは高いとみなされていたのです。「逮捕されればそれで終わりだ」というドイツ側の脅しもあり、この思考回路こそが、潜伏者の少なさ、潜伏の申し出の拒否、そして膨大な数のユダヤ人が移送に応じたという事実を説明します。ユダヤ人にとっても非ユダヤ人にとっても、抗議するよりも協力するほうが長期的には安全で賢明だったのです。そして1942年夏に強制移送が始まったとき、誰もが「戦争はそう長くは続かない」と思っていました。
信じられなかった大量虐殺の情報
ドイツ側は労働力を必要としていたため、「すべてのユダヤ人が到着直後に殺害される」などという発想は、そもそも人々の頭に浮かぶことすらありませんでした。ユダヤ人殺害の報せが地下(非合法)紙にもたらされても、オランダ人はどう受け止めればよいのか分かりませんでした。多くの日記には、信頼できる情報の欠如を嘆く記述が残されています。大量虐殺工場は歴史上前例のない存在であり、その実態を語る少数の内部告発者は誰にも信じられませんでした。最も多くの「うわさ」を受け取っていた連合国側でさえも、です。
「次は自分の番だ」という思い込み
さらに、ユダヤ人も非ユダヤ人も、差別的な措置はやがてすべてのオランダ人に及ぶと考えていました。ユダヤ人が最初の標的となったのは、単にドイツ人がユダヤ人を憎んでいたからであり、オランダ人はそれを恐ろしく野蛮なことだと感じていました。まずユダヤ人がラジオや自転車を差し出し、その次に一般のオランダ人が差し出す。まずユダヤ人がポーランドへ労働に行かされ、その次に勤労動員制度のもとでオランダ人男性が行かされる。ところが、後者の二つの「強制移送」の目的がまったく異なるものだったとは、誰ひとり想定していませんでした。ドイツ側が抵抗を封じるために維持していたホロコーストの徹底した秘密性は、こうして機能していたのです。
日記の断片が本に命を与える
数多くの日記の断片によって、本は生き生きとしたものになっています。その内容はファン・デル・ブーム氏の主張を裏付けています。つまり、普通のオランダ人は、確かに同情を寄せていたユダヤ人同胞が、ガス室で避けがたい死を迎えようとしていることを知らなかった――これが氏の結論です。氏は後から振り返って過去を裁くのではなく、戦時中の状況そのものへと踏み込んでいく手法を選びました。一方で、なぜ他のヨーロッパ諸国ではユダヤ人の犠牲者がはるかに少なかったのかについては、本書は十分な説明を与えていません。