リチャード・ノリス・ウィリアムズは、本来ならタイタニック号に乗り合わせるはずのない乗客だった。若きアメリカ人テニス選手である彼は、もっと早くヨーロッパを発つ予定だったが、はしかの流行が旅を遅らせ、当時の造船技術の粋を集めた豪華客船のチケットを手にすることになったのだ。父親とともに乗船したこの旅は、最悪の形で歴史に名を刻むこととなる。
船は4月10日にサウサンプトン港を出港した。5日後、ウィリアムズはわずかな幸運な生存者の一人になっていた。これが人生最大の出来事と思いきや、実はそれは彼の驚くべき物語のほんの序章にすぎなかったのである。
運命の船に乗り込んだ日、彼はすでにテニス界で名の知れた存在だった。チームメイトやコーチたちは彼を有望な若手選手として見ており、周囲は大きな期待を寄せていた。
1891年1月29日、アメリカ人の両親のもとスイスのジュネーブに生まれた彼は、ハーバード大学に学びながら、アメリカへ戻って一連のトーナメントに出場していた。

タイタニック号沈没
しかし4月14日午後11時40分頃、彼の乗る船は、史上最も有名な氷山に衝突しようとしていた。ウィリアムズと父親――ちなみに父はアメリカの建国の父ベンジャミン・フランクリンの直系の子孫とされる――は、すぐにAデッキの客室を出て階段を上り、甲板へ向かった。何をすればいいのか分からぬまま、二人はバーへと向かった。
その走りは、閉ざされたドアの前で止まった。乗組員の一人が必死に開けようとしている扉だった。パニックに陥った他の乗客たちが反対方向へ走り去る中、彼はその扉へ駆け寄り、力ずくでこじ開けてみせた。
皮肉なことに、乗組員は若きテニス選手に対して激怒し、「船会社に損害を報告してやる」と怒鳴りつけたという。ジェームズ・キャメロンの映画『タイタニック』(1997年)をご記憶の方なら、どこかで似たようなシーンを目にしたことがあるかもしれない。
バーにたどり着くと、今度は別の乗組員から「閉まっている」と告げられた。二人は空のボトルを一本つかみ取り、船内ジムへ向かった。そこでウィリアムズは、体を温めるために固定式のエアロバイクにまたがり、ペダルを漕ぎ始めた。その間、体育指導員のトーマス・マコーレーが「救命胴衣があれば溺れずに済む」と語るのが聞こえたという。

大海原を漂って
しかし現実には、救命胴衣に救われた人はごくわずかだった。冷たい海水が船内になだれ込む中、リチャード・ウィリアムズは父親とはぐれ、暗い海にひとり浮かんでいた。父親に何が起きたのか、正確なところは分かっていない。船体が断裂する際に命を落としたか、あるいは水没したか――それが最も可能性の高いシナリオだとされている。
「水中に長くはいなかった。すぐに浮上し、大きな毛皮のコートを脱ぎ捨てた」と彼は後に書き残している。「靴も同じように脱いだ。20メートルほど先に何か浮かんでいるのが見えた。泳いで近づいてみると、それは転覆した救命ボートだった」
ふと顔を上げると、沈みゆく船の灯りが目に飛び込んできた。「想像を絶する光景だった」と彼は回想している。
「船首が沈むにつれ、船尾はどんどん高く空中へ舞い上がり、やがてゆっくりと私の頭上を越えていった。あの時落下してきていたら、私は押しつぶされていただろう。真っ直ぐ前を見ると、3基のスクリューと舵が澄み渡る空を背景にシルエットとなって浮かんでいた。そして船は、音もなく静かに海へと滑り込んでいった」
「この足は必要なんです」
ウィリアムズをはじめとするタイタニック号の生存者たちは、救援に駆けつけたカルパチア号に救助されたが、彼の試練はまだ終わっていなかった。船医は、凍傷にかかった若きテニス選手の両脚を一目見るなり、明るい口調で「切断をお勧めします」と言ったのだ。
しかし若き漂流者はこれを拒否し、医師にこう言い放った。「この足は必要なんです」
再び足の感覚を取り戻そうと決意したウィリアムズは、カルパチア号の甲板に上がり、2時間ごとに歩いた。数ヶ月後、彼は再びテニスコートに立っていたのである。

1912年8月、彼は全米選手権(現在の全米オープン)でメアリー・ブラウンと組み、混合ダブルスを制した。さらに2年後には全米オープンでシングルス優勝を果たし、前年にタイトルを奪われていたモーリス・マクローリンを破って雪辱を果たした。
しかし間もなく、彼はテニスから再び離れることを余儀なくされる。第一次世界大戦の砲火が始まったのだ。戦場での勇敢さにより、彼は今度はレジオン・オブ・オナー(名誉勲章)を授与された。
パリ1924
帰還後も彼はコート上での勝利を重ね、1924年のパリオリンピックへとたどり着き、ついに金メダルを獲得した。
1957年、足を失うところだったあ日の漂流者は、テニス殿堂入りを果たす。ニューヨーク・タイムズの記者は彼についてこう書いた。「絶頂期の彼は無敵であり、1920年から1925年にかけての第一人者ビル・ティルデンよりも輝いていた」と。
波乱に満ちた人生を送りながらも、ウィリアムズは決して名声を求めることなく、タイタニック号の乗客としての体験について語ることもほとんどなかった。死去の直前に、事件についての回想録を35ページほどの冊子として発表したきりだった。
1997年、映画『タイタニック』が公開されると、家族のもとにはジャーナリストからの質問や電話が殺到したという。しかし、それ以上語るべきことは何もなかった。ウィリアムズはすでに1968年6月2日、長い年前に他界していたからだ。
「祖父は謙虚な人で、自分自身について話すのが好きではありませんでした」と孫は記者たちに語っている。
彼に起こった数々の信じられない出来事の中でも、ひときわ際立っているのがこれだ。命がけで海に投げ捨てたコートと、父とともにバーから持ち出したボトルを、船会社が本人へ返却したのである。
あの空のボトルは今、まさにそれにふさわしい特別な家宝として、子孫の家を飾り続けている。