1768年、イギリス軍がボストンに到着したことは、イギリス政府とアメリカ植民地の間で高まる緊張における重大な転換点となりました。この軍の駐留は、その後のアメリカ独立戦争へとつながる一連の出来事の発端となったのです。
ここでは、1768年にイギリス軍が到着した際に何が起こったのか、そしてその後どのように歴史が動いていったのかを詳しく解説します。
1. 不輸入決議(ノン・インポーテーション運動)
イギリスは1767年にタウンゼンド諸法を可決し、紙、ガラス、茶など植民地へ輸入されるさまざまな品目に新たな税を課しました。
これに対抗して、アメリカの商人や植民地の人々は不輸入決議を実施し、イギリス製品のボイコットによって税の撤廃を求める圧力をかけ始めました。
2. ボストン虐殺事件
1770年3月、ボストンにおける植民地人とイギリス軍の緊張が頂点に達し、後に「ボストン虐殺事件」と呼ばれる悲劇が発生しました。
激昂した植民地人とイギリス兵との一連の衝突の中で、5人の植民地人がイギリス兵によって殺害されました。
この事件は緊張をさらに悪化させ、イギリス当局や軍の駐留に対する反感を一層強める結果となりました。
3. プロパガンダと抵抗運動の拡大
ボストン虐殺事件の後、植民地人はプロパガンダや政治パンフレットを活用して事件の実態を広く伝え、イギリスの抑圧に対する抵抗の気運を高めていきました。
サミュエル・アダムズやトマス・ペインといった人物の著作、特に『コモン・センス』は世論を形成し、独立への支持を大きく結集させる力となりました。
4. 通信委員会の設立
1772年にはボストン通信委員会が設立され、異なる町の植民地人同士が連絡を取り合い、抵抗活動を調整する重要な手段となりました。
委員会は、イギリスの支配に立ち向かうための思想、情報、戦略の交換を促進しました。
5. 茶法とボストン茶会事件
1773年、イギリス議会は茶法を可決し、事実上、茶の販売独占権をイギリス東インド会社に与えました。
これが植民地側のさらなる怒りを引き起こし、1773年12月に有名な「ボストン茶会事件」が発生しました。
先住民に変装した植民地人たちはイギリスの茶船に乗り込み、大量の茶の積荷をボストン港へ投げ捨てたのです。
6. 耐え難き諸法
イギリスはボストン茶会事件への報復として、1774年に「耐え難き諸法」を可決し、マサチューセッツの植民地人を罰し、威嚇することを目的としました。
これらの法律は緊張をさらに激化させ、独立へ向かう機運を一層高めることになりました。
7. 第一回大陸会議
耐え難き諸法に対抗するため、1774年9月にフィラデルフィアで第一回大陸会議が開催されました。
13植民地すべてから代表者が集まり、それぞれの不満を共有しながら、イギリスの政策に対する統一された対応策を協議しました。
8. アメリカ独立戦争への序章
1768年のイギリス軍の到着は、アメリカ独立戦争へと至る一連の出来事の幕開けでした。
課税、代表権、植民地の権利をめぐる問題を巡って、植民地人とイギリス当局の対立は深まり続け、ついに1775年、アメリカ独立戦争が勃発することとなるのです。