1999年3月24日、北大西洋条約機構(NATO)は、ユーゴスラビア連邦共和国(FRY)に対する大規模な空爆作戦「アライド・フォース作戦(Operation Allied Force)」を開始しました。この軍事介入の背景には、スロボダン・ミロシェヴィッチ率いるユーゴスラビア軍およびセルビア治安部隊が、コソボ自治州においてアルバニア系ゲリラ組織や一般市民への弾圧を激化させていたことがありました。
空爆に至るまでの経緯
コソボ問題の平和的解決を目指し、1999年初頭にはフランスのランブイエで和平交渉が行われましたが、ユーゴスラビア側がコソボに大幅な自治権を認める和平合意案への署名を拒否したため、交渉は決裂しました。同年4月にワシントンD.C.で開催されたNATO首脳会議では、コソボ情勢への対応として空爆の続行と徹底が改めて確認されています。
78日間に及ぶ空爆とクマノヴォ合意
空爆作戦は約78日間にわたって続行されました。橋梁や発電施設、通信インフラなどが攻撃対象となり、ユーゴスラビア国内に深刻な打撃を与えました。最終的に1999年6月10日、ユーゴスラビア軍のコソボ撤退を確認する「クマノヴォ合意」が調印され、空爆は終結しました。同日には国連安全保障理事会でコソボの暫定行政体制を定める決議1244も採択されています。
空爆がもたらした犠牲と影響
この空爆により、軍人・民間人合わせて数百人の命が失われ、インフラにも甚大な被害が発生しました。さらに、コソボからは数十万人規模の人々が家を追われ、その多くはセルビア系部隊から逃れたアルバニア系住民でした。隣国アルバニアやマケドニアなどへ大量の難民が流入し、欧州全体で人道危機が懸念される事態となりました。
賛否を分けた軍事介入
今回の介入は、西側諸国の国内においても世論を二分する大きな論争を巻き起こしました。「コソボでの人道的大惨事を食い止めるために必要な措置だった」とする意見がある一方で、「主権国家に対する侵略行為であり、国際法に反する」と批判する声も根強く存在しました。国連安保理の明示的な承認を経ないNATO単独の軍事行動であったという点は、今日でも国際政治における重要な議論テーマとなっています。