1837年から1901年まで続いたビクトリア朝時代のイギリスでは、犯罪者に対する態度は概して厳しく、応報的なものでした。当時の社会は「抑止」こそが犯罪防止の最も重要な手段であると強く信じており、人々がそもそも犯罪を犯さないよう、厳しい刑罰を科すことが何よりも重視されていました。
以下、ビクトリア朝イギリスにおける犯罪者への態度を特徴づける主要な側面を詳しく見ていきましょう。
1. 国外移送と流刑植民地
ビクトリア朝時代に最も一般的な刑罰の一つが、流刑植民地への移送でした。有罪判決を受けた囚人はオーストラリアなどの遠隔地へ送られ、過酷な条件下での労働を強いられながら刑期を務めました。移送は、犯罪者を社会から切り離すと同時に、他者への見せしめとしての抑止効果も期待されていました。
2. 貧民院(ワークハウス)
貧民院はビクトリア朝の刑事司法体系において重要な役割を果たしました。浮浪罪や酩酊、失業といった軽微な「罪」を犯した人々を含む、「値しない貧民」とみなされた人々がここに収容されました。貧民院は過酷な環境と厳格な規則で悪名高く、規律を叩き込み、公的扶助への依存を思いとどまらせることが目的でした。
3. 公開処刑
公開処刑はビクトリア朝時代によく見られた光景であり、抑止策であると同時に大衆の娯楽としての側面も持っていました。大勢の群衆が処刑を見物に集まり、こうした行事は犯罪行為に対する戒めとして捉えられていました。しかし一方で、公開処刑は暴力を助長し、人間の尊、人間の尊厳を損なうとして批判を受けることもありました。
4. 死刑制度
死刑の適用はビクトリア朝期において広範に行われていました。窃盗や偽造、さらには軽微な違反行為に至るまで、幅広い罪が死罪の対象となり得ました。しかし、死刑の乱用に対する世論の反対が次第に高まり、19世紀末に向けてその適用範囲は徐々に狭められていきました。
5. 警察改革
ビクトリア朝時代は警察制度の大きな変革期でもありました。特に1829年にロンドンで創設されたロンドン警視庁(Metropolitan Police)は象徴的な存在です。職業警察組織の導入により、法執行の改善と犯罪率の低下が目指されました。とはいえ、警察の手法はしばしば強権的で乱暴だと批判され、市民への暴力につながるケースも少なくありませんでした。
6. 監監獄と懲役施設
国外移送や貧民院に加え、監獄もビクトリア朝の刑事司法において重要な役割を担いました。監獄は刑罰の執行、犯罪の抑止、そして受刑者の更生という三つの目的を掲げて設計されました。受刑者同士の悪影響の拡散を防ぐため、「分房拘禁」の考え方も導入されました。しかしながら、監獄の実態は過密で不衛生であり、高い死亡率をもたらす結果となっていました。
まとめ
全体として、ビクトリア朝イギリスにおける犯罪者への態度は、抑止の重視、厳罰主義、そして社会秩序維持の重要性への強い信念によって特徴づけられていました。刑事司法制度の改革の試みは存在したものの、進歩的な理念やより人道的なアプローチが定着し、当時の懲罰的な風潮に取って代わるまでには、長い時間を要することとなりました。