アフリカの歴史

なぜコルテスはモクテズマを捕虜にしたのか?その理由と歴史的背景を解説

モクテズマ捕虜事件の背景

1519年11月8日、エルナン・コルテス率いるスペイン軍は、アステカ帝国の首都テノチティトランに入城しました。皇帝モクテズマ2世はスペイン人たちを丁重に迎え入れ、贈り物や食料を提供して歓待しました。しかし、わずか数百人の小規模な部隊であったコルテス一行は、まもなくして大胆な行動に出ます。

コルテスがモクテズマを捕らえた理由

入城からわずか数日後の1519年11月中旬、コルテスはモクテズマ2世を自陣内に幽閉し、事実上の捕虜としました。この決断には、以下のような戦略的な理由がありました。

1. 帝国を間接的に支配するため
アステカ帝国は中央集権的な国家であり、皇帝の権威は絶対的でした。モクテズマを傀儡として利用すれば、大軍を必要とせずに広大な帝国を支配できると考えたのです。

2. 自軍を守るため
コルテスの部隊は約500人程度で、圧倒的に不利な状況でした。皇帝を人質に取ることで、アステカ側の攻撃を抑止しようとしたのです。

3. 財宝と情報を得るため
捕虜にしたモクテズマを通じて、金や財宝の献上を求めるとともに、帝国の内部事情や周辺諸国に関する貴重な情報を収集しました。

モクテズマの最期とテノチティトラン陥落

1520年6月、アステカの人々の不満が爆発し、スペイン人への反乱が起こりました。混乱の中でモクテズマ2世は死亡します。スペイン側の記録では暴徒の投石による死亡とされていますが、アステカ側の資料ではスペイン人によって殺害されたとも伝えられており、真相は今なお謎に包まれています。

1520年6月30日、コルテス一行は「悲しき夜(ノチェ・トリステ)」として知られる撤退戦の末、テノチティトランからの脱出を余儀なくされました。しかし、コルテスはトラスカランなどの先住民諸国と同盟を結び、兵力を大幅に増強。1521年5月には再びテノチティトランを包囲しました。

約3か月に及ぶ激しい包囲戦の末、1521年8月13日、テノチティトランは陥落し、アステカ帝国は滅亡しました。こうしてコルテスは、一人の皇帝を捕虜にするという大胆な策略から始まった征服事業を完遂することになったのです。