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【足利義満】世界遺産・金閣寺は「天皇になる」ために建立されたのか?

今回は、室町幕府三代目将軍として天下を支配した足利義満(あしかがよしみつ)と、彼が建立した世界遺産金閣寺についてご紹介します。

義満はなぜ金閣寺を建てたのでしょうか。その目的には、単なる別荘や信仰にとどまらない、壮大な野望が隠されていたと言われています。

また、金閣寺以外に義満はどんな功績を残したのでしょうか。その生涯を追いながら、人物像と金閣寺に秘められた秘密に迫ります。

足利義満の簡単プロフィール

幼くして将軍へ

1358年、義満は京都で生まれました。父は室町幕府二代目将軍の足利義詮(あしかがよしあきら)です。

義満が幼い頃、天皇の地位をめぐって京都の「北朝」と奈良の「南朝」が対立し、国内は戦乱の時代でした。

幕府内部でも争いが絶えず、義満は一時、寺院や播磨(現在の兵庫県)の城に避難して過ごしています。

12歳前後で父が病気で亡くなると、義満は若くして室町幕府三代目将軍に就任しました。

17歳前後には日野業子(ひのなりこ)と結婚しています。

権力の頂点へ

21歳前後のとき、邸宅を京都の北小路室町に移しました。各地の大名が季節の花木を献上したことから、この屋敷は後に「花の御所」と呼ばれるようになります。

ちなみに、幕府を指す言葉として今では当然のように使われる「幕府」という呼び名は、江戸時代中期以降に定着したものだと言われています。「室町幕府」の名称も、この花の御所の所在地に由来します。

26歳前後までに、義満は初代将軍・足利尊氏や父・義詮をしのぐ地位まで昇りつめます。さらに武家と公家(くげ)、両方の権力の頂点に立ったのです。

南北朝の統一と明との貿易

35歳前後、南朝の勢力が弱まってきたことを受け、義満は南北朝の和睦交渉を開始します。「皇位は両家が交互に継承する」という条件で南朝と和解し、58年間続いた南北朝時代をついに終結させました。

38歳前後になると、長男に将軍職を譲って隠居し、出家します。出家の理由は、武家と公家の頂点に立った義満にとって、次に狙うべきは寺社勢力の掌握だったからだと考えられています。その欲望の深さには驚かされますね。

実は義満は20代の頃、明(中国)との貿易を試みたことがあります。しかし「皇帝の臣下とは取引しない!」と拒否されてしまいました。

ところが、出家した義満はもはや日本の皇帝の臣下ではありません。そこで念願だった日明貿易を開始し、明の皇帝から「日本国王」という称号まで授けられたのです。

44歳前後のとき、京都の北山に移り住み、金閣寺(鹿苑寺)を建立します。

そして51歳で病気により亡くなりました。

義満のわがままな性格!

若き日の義満は、大阪から京都への帰り道、家来たちにこう命じました。
「ここの景色はいい。京都に持って帰れ。お前たちが運べ!」

スケールの大きさを評価する声もありますが、いかにも我がままなエピソードです。この一言だけで、義満がどんな人物だったのかがよく分かります。

また義満は明への憧れが強く、元号を改める際に明の洪武帝にちなんだ「洪」という文字を使おうとしました。しかし、洪水を連想させる不吉な字だとして採用されませんでした。

機嫌を損ねた義満は、存命中は元号を改めなかったと言われています。その結果、「応永」の元号は明治以前では最も長く続くことになりました。

政治面では、力のある者が命令に背いても罰せられない一方、弱い者は軽い罪でも厳しく処罰されるという、力主義的な側面がありました。それでも義満の時代は室町幕府の最盛期だったため、これが正解だったのかもしれません。

遅刻を許さず、自分や周囲の服装にも非常にうるさかったようです。

金閣寺に隠された秘密!

【足利義満】世界遺産・金閣寺は「天皇になる」ために建立されたのか?

超有名な「金閣寺」。写真だけ見ると、あまりのピカピカぶりに魅了されます。2階建てかと思いきや、実は3階建ての建物です。

2階と3階はびっしりと金色の金箔で覆われていますが、1階は比較的落ち着いた作りです。

そもそも、なぜこんなにピカピカなのでしょうか。それは義満が自らの権力を見せつけたかったからだと言われています。自己顕示欲の強さがよく表れていますね。

実は金閣寺は、階ごとに異なる建築様式を採用しています。

1階は公家好みの「寝殿造」、2階は武家好みの「書院造」、3階は禅宗様式の「仏堂造」です。

出家して禅宗に帰依していた義満は、この建物によって「自分が武家と公家の両方の最高位にある」ことを示そうとしたのです。

さらに、金閣寺の屋根の頂には「鳳凰像(ほうおうぞう)」が飾られています。これは「天子のもとに鳳凰が現れる」という伝説になぞらえたものだと言われています。

つまり義満は、前例のない「武士が天皇になる」という野望を実現しようとしていたのではないでしょうか。

実際、義満の死因についても、病気ではなく朝廷側による毒殺だったのではないかという説があります。

ちなみに、公家を象徴する1階ですが、建立当時はここにも金箔が施されていたという説もあります。当時の金閣は、現在よりもさらに輝いていたのかもしれません。

まとめ

義満の肖像画を見ると「優しそうなおじいちゃん」というイメージを持っていましたが、実際は自己顕示欲の強い、我がままな将軍でした。

しかし、義満の時代は足利幕府の中で最も栄えた時期だと言われており、名将だったのかもしれません。

金閣寺の真の意味を知ると、義満には多くの敵がいたのだろうなと想像できますね。