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【会津騒動】暴君・加藤明成と長老・堀主水の争いが招いた最悪の結末

豊臣秀吉に仕え、「賤ヶ岳しずがたけ七本槍」の一人として名を馳せた加藤嘉明かとう・よしあき。関ヶ原の戦いでも武功を挙げ、晩年には会津藩40万石を治める大名となりました。

しかし嘉明は、会津に入部してわずか4年でこの世を去ります。家督を継いだのは嫡男・加藤明成かとう・あきなり。ところがこの明成、父とはまるで違う暴君だったのです。

やがて明成は、代々加藤家に忠義を尽くしてきた長老たちと対立し、ついには幕府を巻き込む大騒動へと発展します。

今回ご紹介するのは、暴君・加藤明成と長老たちの間で起きた事件――「会津騒動」です。幕府をも巻き込んだ、江戸時代屈指の大御家騒動となりました。

暴君・加藤明成!

【会津騒動】暴君・加藤明成と長老・堀主水の争いが招いた最悪の結末

1592年、加藤嘉明の嫡男として生まれたのが明成です。

1600年、関ヶ原の戦いで武功を立てた父・嘉明は、伊予松山藩(現在の愛媛県)20万石の初代藩主となります。その後、幕命により会津藩(現在の福島県)40万石へ転封されました。

ただし会津に入ったとき、嘉明はすでに65歳。わずか4年後に亡くなっています。

こうして嫡男の明成が家督を継ぎ、会津藩第2代藩主となりました。しかし、この明成はどういうわけか父・嘉明とまるで似ていません。

嘉明は「真の武士とは、強い責任感と規律を備えた者である」と自ら説くほどの実直な人物でした。そのため戦では意見の衝突も少なくありませんでしたが、高齢と松山への未練から会津転封には消極的だったものの、幕命とあれば従ったのです。

おそらくそんな父の姿を見て育ったはずの明成ですが、その暴振ぶりは想像を絶するものでした。民の苦しみなど顧みず年貢を吊り上げ、金銀や珍しい品々を我欲のために集め続けたのです。

江戸時代に流通していた貨幣「一分金」には、明成の官名である式部少輔しきぶしょうゆうの銘が刻まれており、「加藤一分判」と呼ばれていました。

そんな暴君・加藤明成と長老の間で、大きな事件が起こります。

家老・堀主水という人物

まず、堀主水ほり・もんどの読み方から。「もんど」と読みます。「しゅすい」ではないので注意してください。

主水は元々玉井氏たまいしに仕え、のちに織田信長おだ・のぶながに仕えたといわれる人物です。その後、加藤嘉明の下で重臣として活躍しました。

1615年、豊臣対徳川の大坂の陣では大活躍。敵を追い詰め、堀(濠)に落ちるまで戦わせた功績により、姓を「堀」に改めることを許されたといいます。当時の武将にとって、これほど誇らしい名誉はなかったことでしょう。

主水は戦国武将らしい、誇り高い気性の持ち主でした。嘉明の死後、どこか平和ボケした様子の明成と折り合いが悪かったのも無理はありません。二人の関係は悪化していく一方です。

あるとき、明成の家臣と主水の家臣との間で喧嘩が起こります。これを裁定したのは明成自身でした。誰の目から見ても明成側の家臣に非がある状況だったにもかかわらず、断罪されたのは主水の家臣の方。まさに暴君・加藤明成ならではの裁きです。

主水は黙っていられず、「先代の嘉明公とは大違いの主だ!」と怒鳴ってしまいます。激怒した明成は、主水を家老職から罷免。二人の対立はさらにエスカレートしていきました。

会津騒動は最悪の結末に!

【会津騒動】暴君・加藤明成と長老・堀主水の争いが招いた最悪の結末

1639年、明成が第2代藩主となってから8年後。堀主水は弟や一族、家臣300人を引き連れて若松城を出ます。

単に退去するだけなら、まだ最悪の結末には至らなかったかもしれません。しかし、長年の恨みが爆発した主水たちは、城へ発砲し、橋を焼き払い、関所を打ち破って去っていったのです。

参勤交代で江戸にいた明成は、この報せに激怒。すぐさま追手を差し向けます。

一方の主水は、妻子を鎌倉の東慶寺とうけいじに預け、自身は高野山へ逃げ込みました。東慶寺は「縁切寺」「駆け込み寺」と呼ばれた寺で、離縁が難しかった江戸時代において、女性の幸せを第一に考えた離婚の仲介を行っていた特別な場所です。

主水は徳川御三家の一つ・紀州藩、そして最終的には幕府へ助けを求めました。そして最終的な裁定を下したのは、徳川三代将軍徳川家光とくがわ・いえみつです。

家光は「主水の言い分は分かる。だが、家臣はどんな主にでも従うべきもの。ましてや城に向かって発砲し、関所を打ち壊すなど言語道断だ」として、主水を明成側に引き渡します。

こうして2年以上に及んだ騒動は、主水と弟2人の処刑によって幕を閉じました。

ところが、怒りが収まらない明成はさらに兵を東慶寺へ送り、主水の妻子を召し捕ろうとしたのです。治外法権であり、女性を守る場所でもある寺に踏み込むという、あまりにも乱暴な挙措でした。

結果的に、明成は表向き「病のため政務を執ることができない。とても大藩を治める器ではない」と言い訳し、会津の領地を幕府に返上することになりました。加藤家は事実上、会津を失ったのです。

しかし、これには非常に不自然な点があります。あれほど暴君と呼ばれた明成が、自分の罪を認めるどころか、大藩を自ら手放すなどあり得ない話だからです。背景には幕府の思惑があったともいわれています。

実際、その後の会津藩を治めたのは、三代将軍・家光の異母弟である保科正之ほしな・まさゆきです。会津が将軍家の血筋による名門藩となったことを考えれば、幕府の意図が透けて見える話といえるでしょう。

まとめ

今回は、会津藩で起こった御家騒動「会津騒動」についてご紹介しました。御家騒動はどの藩でも起こり得ましたが、幕府を巻き込んだ大騒動に発展したため、特に有名な話となっています。

その後、加藤家は先代・嘉明の功績によって取り潰しは免れましたが、会津40万石から石見吉永藩(現在の島根県)1万石へと大幅に減封されました。明成は息子が治める吉永藩で政を語ることもなく、ひっそりと余生を過ごしたといいます。

主水と明成、双方の行き過ぎた振る舞いが騒動を大きく膨らませました。まさに絵に描いたような「喧嘩両成敗」だったのかもしれません。