軍師とは?その誕生の背景
武将といえば、主君に仕えて戦略や戦術を献じる参謀のようなイメージがありますが、こうした「軍師」の姿は、実は戦国時代の中期になって現れた新しい形態でした。
それまでの武士たちは、陰陽道などの占術を得意とする軍配者だったと言われています。占いによって吉凶を判断し、出陣の日時や作法などを助言するのが仕事で、現在のような戦術を考える立場ではなかったのです。
参謀型軍師の登場
戦国時代も中期に入ると、従来の軍配者とは異なる、作戦立案を担う参謀型の軍師が現れます。将の数が数百〜数千人程度であれば、軍配者の見立てだけでも戦えたかもしれません。しかし、大規模な合戦が増えた戦国中期にはそれでは不十分でした。
1万、10万単位の大軍を動かすには、伝統的な占い頼みの軍配者ではなく、陣形や戦術を熟知した参謀型の軍師への需要が高まっていったのです。
参謀型軍師のはしりとされるのが、武田信玄に仕えた山本勘助です。勘助はもともと築城を得意とした武将でしたが、川中島の戦いなど作戦面にも関わったことで知られています。
この時代には他にも、豊後の大友宗麟に仕えた立花道雪、羽柴秀吉には竹中半兵衛と黒田官兵衛という二枚看板が存在しました。
また、今川義元に仕えた太原雪斎は合戦での指揮だけでなく、外交面でも甲相駿三国同盟の締結に尽力しました。毛利氏に重用された禅僧の安国寺恵瓊も、僧侶であることを活かして外交で大いに活躍しています。
このように、戦国中期に登場した参謀型の軍師たちは、合戦のみならず内政や外交でも活躍し、ある意味では君主の補佐役としての役割も果たしていたのです。
戦国最強軍師ランキング
ここまで軍師の概略を簡単に説明してきましたが、ここからは、後世に「最強」と称される戦国の軍師たちをランキング形式でご紹介します。
第5位:直江兼続(1560年~1620年)
偉大な上杉謙信の死後、跡目争いで揺れ動いた上杉家をまとめ上げたのが直江兼続です。
武田信玄亡き後の武田家の末路を見れば、カリスマ的な君主の死後に家を継ぐことがどれほど難しいかがわかります。織田家や豊臣家についても同じことが言えるでしょう。
21歳という若さで上杉家を支える立場となった兼続は、豊臣政権下で新田開発・産業振興・商業発展といった内政に力を注ぎました。
徳川の世となってからは、会津120万石から米沢30万石へと大幅に減封されましたが、家臣の数を減らすことなく領国の開発を進めています。
上杉家が幕末まで存続できたのは、ひとえに直江兼続の存在があってこそと言えるでしょう。
第4位:片倉景綱(1557年~1615年)
1567年に伊達政宗が誕生すると、景綱の姉がその乳母に任命され、片倉景綱は伊達輝宗の小姓として仕えることになりました。
政宗が家督を継ぐと、数々の重要な合戦で参謀として謀略と戦略を担い、伊達家の危機を何度も乗り越えさせました。
特に、豊臣秀吉による小田原攻めの際、参陣をためらう政宗に対して、「もはや秀吉の天下は動かせない。ここで従わなければ伊達家の命運はこれまでだ」と説得し、伊達家を存続へと導いた逸話は有名です。
その手腕は徳川家康の目にも留まり、一国一城令が出された際にも、例外的に白石城1万3000石を与えられました。
第3位:小早川隆景(1533年~1597年)
毛利元就の三男として生まれ、小早川家に養子に入って家督を継ぎました。
長男の隆元は毛利本家を、次男の元春は吉川家をそれぞれ継いでいます。
元就といえば「三本の矢」の故事で有名ですが、1563年に長男の隆元が父・元就に先立って亡くなり、若い輝元が家督を継ぐと、隆景が毛利家を支える大黒柱となりました。
元就の死後も隆景は毛利家を全面的に支え、宿敵・尼子氏との戦いや九州での大友氏との戦いに勝利し、村上水軍も傘下に収めました。その後、織田信長・豊臣秀吉との対峙においても、毛利氏を滅亡の危機から守り抜いています。
秀吉から伊予一国を与えると言われたこともありましたが、丁重に辞退し、本家である毛利家に領地を与えてほしいと嘆願した逸話が残っています。
第2位:竹中半兵衛(1544年~1579年)
『信長公記』にはほとんど記述がなく、多くの謎に包まれた軍師ですが、『太閤記』などの資料によると「その風貌、婦人のごとし」と記されています。しかし実際は、見た目からは想像できないほどの武芸の達人で、剣術にも優れていたと言われています。
主君不在の際にわずかな人数で稲葉山城を落とし、すぐさま主君に返還したという話は有名ですが、真相には謎の多い部分もあるようです。
また、黒田官兵衛が謀反の疑いをかけられ、長男が信長によって処刑されそうになった際には、処刑を偽装して彼を守り抜きました。そして疑いが晴れたとき、騙されていたはずの信長自身が「間違って処刑せずに済んだ」と喜んだという逸話もあります。
もともと病弱でしたが、最期は戦場で散ることを決意し、秀吉の毛利攻めに参加して、最前線である三木城攻めの陣中で病死しました。
秀吉が「半兵衛さえいれば何でも成し遂げられる」と言うほど信頼した、戦国随一の天才軍師・竹中半兵衛(重治)の志は、もう一人の天才・黒田官兵衛へと受け継がれていくのです。
第1位:黒田官兵衛(1546年~1604年)
豊臣秀吉による天下統一に最も大きく貢献したのが、この黒田官兵衛(如水)です。
備中高松城の水攻めと中国大返しの際、本能寺の変で信長が亡くなったことを知り、落胆する秀吉に「今は運が味方しております」と言った逸話はあまりにも有名です。
明智光秀との山崎の戦いでは先手を打つことに成功し、その後も賤ヶ岳の戦いや九州征伐などで大きな功績を挙げました。
小田原征伐では北条氏政との交渉役を務め、小田原城の無血開城を実現させています。
秀吉の天下取りに多大な貢献をしたにもかかわらず、与えられたのは豊前17万石のみでした。あまりに能力が高すぎるため、秀吉に警戒されたのだと考えられています。
それを察知した黒田官兵衛自身、家督を長男・長政に譲って隠居します。
しかし秀吉は隠居した官兵衛を呼び戻し、朝鮮出兵への参加を命じるという無理な人事を行いました。
豊臣政権が一代で終わった理由の一つは、最大の功労者である黒田官兵衛の扱いを誤ったことにあるとも言われています。
当時最も警戒すべき徳川家康を監視するため、上杉氏を会津に移す代わりに、信頼厚い官兵衛を近江・美濃・尾張などに配置していれば、歴史は大きく変わっていたかもしれません。
まとめ
今回は戦国時代最強の軍師ランキングをご紹介しましたが、いかがでしたでしょうか。
この参謀型の軍師たちは、天下が統一され太平の世になると姿を消し、次第に官僚へと、あるいは側近へと姿を変えていきます。
泰平の世では軍事よりも政治の方が重要になるため当然の流れではありますが、戦国時代における軍師の活躍は、世の中に絶えず争乱があったからこそ成り立った職業だったのです。