アジアの歴史

奴隷からスルタンへ――デリー・スルタン朝の冷酷な支配者バルバンの生涯

デリー・スルタン朝の歴史において、ギヤースッディーン・バルバン(在位1266年〜1287年)ほど「恐怖」のイメージと結びつけて語られる君主は少ないでしょう。奴隷の身分から帝王の座へと昇りつめた彼は、強権と容赦のなさによって国家の秩序を回復した一方、その手法は極めて残酷であったことで知られています。

モンゴルに捕らわれた少年時代

バルバンは中央アジアのイルバリー・トルコ系部族の出身でした。少年時代、略奪行為を繰り広げるモンゴル軍に捕らえられ、奴隷市場で売られるという過酷な経験をします。やがて奴隷商人フワージャ・ジャマールッディーンの手に渡り、他の多くの奴隷たちとともにデリーへ送られ、そこでスルタン・イルトゥトゥミシュに買い取られました。

宮廷で十分な教育を受けたバルバンは、優れた能力と冷徹な判断力を認められ、次第に頭角を現します。やがて有力なトルコ系貴族集団「四十人派(チハルガーニー)」の中心人物となり、ナーシルッディーン・マフムードの時代には摂政(ナーイブ)として実権を握り、約20年にわたり国政を主導しました。

反乱鎮圧の名のもとに行われた虐殺

同時代の歴史家ジヤー・ウッディーン・バラニーの記録によれば、バルバンの鎮圧作戦は徹底して残酷でした。首都デリー周辺では、反抗を繰り返す勢力に対し森林を切り開き、村々を焼き払い、住民を大量に殺害または捕虜としました。各地に死体が積み上げられ、その腐敗臭が一帯に充満したとも伝えられています。

即位後も、ドアーブ(ガンジス川とヤムナー川の間の両河間地方)やアワッド方面の反乱に対しては、全域をいくつかの軍管区に分割し、それぞれに討伐部隊を配置しました。指導者層の処刑のみならず、一般民衆への弾圧も容赦なく行われ、生き残った人々が二度と立ち上がろうとしなくなるほどの恐怖を意図的に植え付けることが狙いだったとされます。

ベンガル遠征と大規模な処刑

1279年ごろ、ベンガル(ラクナウティ)総督トゥグルル・ハーンが事実上の独立を宣言すると、バルバンはまずアワッド総督アミーン・ハーンに討伐を命じました。しかしアミーン・ハーンは敗北し、バルバンの命令によりアヨーディヤーの城門で処刑され、その死体は見せしめとして晒されました。

バルバンは自ら大軍を率いてベンガルへ進軍します。逃亡したトゥグルルは東ベンガルで捕捉され、殺害されました。さらにバルバンは首都ラクナウティで前代未聞の見せしめを実施します。市内の大通りの両側に絞首台を並べさせ、トゥグルルの一族や支持者とされた人々を次々と処刑したのです。バラニーは「人々はかつてこのような光景を見たことがなかった」と書き残しています。

この後、バルバンは次男ブグラー・ハーンをベンガル総督に任命し、デリーへ帰還しました。

モンゴルの脅威と長子の死

バルバンの治世を通じて、インド北西部ではモンゴル軍の脅威が深刻化していました。ラホール以北の地域はすでにモンゴルの手に落ちており、バルバンは辺境防衛の強化に多大な労力を注ぎます。しかし1285年、寵愛していた長男ムハンマド・ハーンが辺境の守備任務中、モンゴル軍との戦闘で戦死してしまいました。

晩年と死

愛息を失った悲しみはバルバンを深く打ちのめしました。晩年の彼は病に臥せることが多く、眠りの中で突然うめき声や叫び声を上げることもあったと伝えられます。死期を悟った彼はベンガルから次男ブグラー・ハーンを呼び寄せましたが、ブグラー・ハーンは数日滞在しただけでベンガルへ戻ってしまいました。

これに激怒したバルバンは、戦死したムハンマドの子カイクフスローを後継者に指名し、1287年に死去しました。しかしその死後、宮廷の貴族たちは別の孫カイクバードを擁立したため、スルタン朝は急速に衰退へと向かうことになります。

強権支配が残したもの

バルバンは王権の尊厳を高め、宮廷儀礼の厳格化や行政・軍事機構の整備を進めるなど、デリー・スルタン朝の体制強化に大きな足跡を残しました。しかし、その基盤となったのは恐怖による統治であり、彼の治世は同時に、無数の人々の命と自由が犠牲となった時代でもありました。奴隷から帝王へと上り詰め、半世紀余りにわたりインドの政治を左右し続けたこの人物の生涯は、権力が持つ光と影を象徴するものとして、今日も語り継がれています。