1941年に日本が対米攻撃(真珠湾攻撃)へと傾いていった背景には、アメリカが取った一つの決定的な経済措置がありました。それが「在米日本資産の全面凍結」です。
資産凍結の発端――フランス領インドシナ進駐
1941年7月、日本軍は南部フランス領インドシナ(現在のベトナム南部)に進駐しました。これはマラヤやオランダ領東インドといった東南アジアの資源地帯への圧力を強める動きと見なされ、アメリカは日本の軍事的拡大に対する強制的な対抗手段として、同年7月26日、アメリカ国内にある日本の全資産の凍結に踏み切りました。
事実上の石油禁輸
資産凍結に続いて、対日石油輸出は許可制(ライセンス制)となり、実質的に輸出が停止されました。当時、日本は石油需要の約80%をアメリカからの輸入に依存しており、この措置は日本の戦争遂行能力そのものを脅かすものでした。
さらにイギリスとオランダもこれに同調したため、オランダ領東インドからの原油供給も途絶え、日本は三国によって資源の包囲網に閉ざされる形となりました。
日本に突きつけられた二択
資源の枯渇が時間の問題となるなか、日本の指導部が選べる選択肢は次の二つに絞られていました。
- 中国およびフランス領インドシナから撤兵し、日中戦争での既得権益を放棄して制裁を解除してもらう
- 石油やゴムなど豊富な資源を持つ南方地域を武力で占領し、自前で資源を確保する
前者は国家の威信と戦争目的の放棄を意味し、後者は必然的にアメリカとの開戦を伴うものでした。こうした極限的な状況の中で、日本は最終的に後者を選び、同年12月8日の真珠湾攻撃へと突き進んでいくのです。
まとめ
すなわち、1941年の日本の対米攻撃決定に大きな影響を与えたのは、日本の仏印進駐への対抗策としてアメリカが実施した在米日本資産の凍結と、それに伴う事実上の石油禁輸でした。この経済的な締め付けは、日本に「撤退か開戦か」という二者択一を迫り、太平洋戦争への扉を開く重要な転換点となったのです。