アジアの歴史

なぜイギリスは日本に宣戦布告したのか?その背景と経緯を解説

イギリスの対日宣戦布告は「真珠湾攻撃だけ」が原因ではなかった

イギリスによる対日宣戦布告は、単に真珠湾攻撃への報復として行われたものではありません。むしろ、それ以前から続いていた日本の極東における一連の侵略行為の自然な帰結でした。具体的には、1931年の満洲侵攻と占領、1932年の上海爆撃、そして1937年に始まった本格的な中国侵攻が挙げられます。

強まる懸念と、失敗に終わった和平交渉

イギリスは日本の膨張主義に対する懸念を次第に強めていき、平和的な解決を目指して幾度となく外交交渉を試みました。しかし、これらの努力はことごとく実を結ばず、1941年末の時点で、両国間の戦争はもはや避けられないものになっていたのです。

1941年12月8日――連合国としての宣戦布告

イギリスの対日宣戦布告は、アメリカ、中国、オランダなどを含む連合国全体の対日宣戦布告の一環として行われました。宣戦布告の日付は1941年12月8日、すなわち真珠湾攻撃の翌日です。なお、日本側は真珠湾と同時にイギリス領マラヤや香港にも攻撃を仕掛けており、これがイギリスにとって即時の開戦理由となった点も見逃せません。

宣戦布告後の展開――極東での戦闘開始

イギリスの対日宣戦布告の直接的な結果として、極東地域で本格的な戦闘が勃発しました。イギリス軍はビルマ(現在のミャンマー)、マラヤ、そしてシンガポールにおいて日本軍との激しい戦いに巻き込まれていくことになります。特にシンガポール陥落は、イギリスにとってアジアにおける支配体制を揺るがす重大な打撃となりました。