
アメリカ・サウスダコタ州にあるラシュモア山記念国立公園には、4人のアメリカ大統領の巨大な石像が彫刻されています。
これはアメリカ史上最も成功を収めたとされる4人の大統領をモチーフにしたもので、左からジョージ・ワシントン、トーマス・ジェファーソン、セオドア・ルーズベルト、エイブラハム・リンカーンです。
今回は、アメリカ建国の父の一人であり、第3代大統領を務めたトーマス・ジェファーソンの生涯を見ていきましょう。
「最も偉大な大統領」の一人
ジョン・F・ケネディはかつて、ノーベル賞受賞者49人をホワイトハウスでの晩餐会に招いたことがあります。
その際、彼は次のような言葉を口にしたと言われています。
「今日お集まりいただいた皆様は、ホワイトハウスに集まった史上最も優れた才能と知識の結集だと思います……ただし、トーマス・ジェファーソンがここで一人で食事をしていたときは別ですが」
この言葉からも、ジェファーソンがいかに多才で知性あふれる人物だったかがうかがえます。
ヴァージニア植民地に生まれる
トーマスは1743年、ヴァージニア植民地で大規模農園主の息子として生まれました。
9歳にしてラテン語とフランス語の学習を始めるなど、幼い頃から類まれな才覚を発揮します。15歳のときに父親が亡くなると、トーマスは父から広大な土地と多数の奴隷を相続することになりました。
彼は勉強熱心な人物として知られ、語学だけでなく、歴史や哲学、数学を応用する諸科学まで幅広く学びました。
1日15時間勉強したこともあると言われ、ヴァイオリンを愛好し、ホメロスなどの古典にも親しんでいました。
弁護士としてのキャリアと「モンティチェロ」
卒業後は法律を学んで弁護士として活躍し、特に黒人の弁護を数多く手がけました。
この頃、自ら設計にも関わった邸宅「モンティチェロ」を建てています。この建築物は後に世界遺産に登録されました。

ジェファーソンはこの邸宅を建てるために多額の借金を重ね、多くの奴隷を住まわせたと言われています。
一方で、彼の元にいた黒人の中には読み書きを身につけ、ある程度の自由を与えられた者もいました。
独立への道
弁護士業のかたわら、トーマスはヴァージニア議会の議員としても活動し、印紙法など本国イギリスの諸法令に反対する運動を展開しました。
彼は抵抗運動において武力ではなく、植民地会議での協議による解決を主張しました。しかしイギリス側は植民地の代表を受け入れず、本国議会だけで植民地に関する決定を下そうとしたため、これに強く反発します。これこそが、有名な「代表なくして課税なし」という思想につながっていきました。
ジェファーソン自身には当初、独立の意思はなかったと言われます。しかし1775年にレキシントン・コンコードの戦いが勃発し、アメリカ独立戦争が始まります。
トーマスはヴァージニア代表として大陸会議に参加し、イギリス国王宛ての重要文書の起草にも関わりました。さらにジョン・アダムズやベンジャミン・フランクリンらとともに、アメリカ独立宣言の前身となるヴァージニア権利章典やヴァージニア憲法の起草を担うことになります。
これらはやがてアメリカ独立宣言や合衆国憲法へと結実し、1776年7月4日、アメリカはついにイギリスからの独立を果たしました。
削除された「奴隷制禁止」条項
ところが、独立宣言の草案には、ジェファーソンが盛り込んだ奴隷制禁止の条項がありましたが、特権階級の反対によって削除されてしまいます。この部分は後世まで「未解決の剣」として残ることになりました。
また、この頃からジョン・アダムズとの関係が悪化し、1812年に和解するまで長い確執が続くことになります。
建国後の活躍
独立後、トーマスはアメリカ法の整備に奔走します。そこには宗教の自由など、今日まで受け継がれる重要な理念が盛り込まれていました。
しかし、彼が何よりも実現したかった奴隷制禁止の条文については、ついに成立させることはできませんでした。
代わりに、ジェファーソンは奴隷輸入禁止法案の成立に成功しています。
こうして政治的には成功を収めたジェファーソンですが、故郷がイギリス軍に占領された際には逃亡しており、「敵の前から逃げた大統領」と揶揄されることもあります。軍人出身のジョージ・ワシントンとは異なり、彼は純粋な文民政治家だったのです。
フランス大使から大統領へ

1785年には駐フランス大使となり、1789年までパリに滞在しました。帰国後、初代大統領となったジョージ・ワシントンの下で国務長官を務め、1790年代には民主共和党を結成して、その後のアメリカ政界で主導的な地位を築いていきます。
やがてワシントンが3選を辞退すると、ジョン・アダムズが第2代大統領に就任し、トーマスは副大統領となります。そして1800年の選挙に勝利し、第3代アメリカ合衆国大統領に就任したのです。
大統領としての業績
ジェファーソンは国内の税負担を軽減し、関税収入を財源とする政策を推進しました。2019年当時のトランプ大統領が目指していたのも、これとよく似た発想です。
意外に思われるかもしれませんが、ジェファーソンの任期中、アメリカはオスマン帝国支配下のトリポリとの間で「バーバリー戦争」と呼ばれる戦争を行い、ジェファーソン自身が指揮を取って勝利を収めています。
そのほか、陸軍士官学校(ウェストポイント)を創設し、ナポレオン1世からルイジアナを購入して、合衆国の領土を一気に拡大させました。
また、学問への情熱は生涯変わることがなく、教育事業にも力を注ぎ、ヴァージニア大学の創設にも携わっています。
奇跡のような最期
これほど幅広い活動を行ったトーマス・ジェファーソンでしたが、1826年7月4日、アメリカ独立からちょうど50年目の日に静かに息を引き取りました。
不思議なことに、第2代大統領のジョン・アダムズも同じ日に亡くなっており、しかもジェファーソンの方がわずかに先に逝っています。
享年83歳でした。
生前、ジェファーソンはアメリカ有数の富裕者と見なされていましたが、モンティチェロの建設などで抱えた巨額の負債が死後に明らかになり、遺族に大きな負担を残すこととなりました。
トーマス・ジェファーソンへの評価
彼は非常に勤勉な人物で、晩年にはコーランを読んだとも言われています。
裕福な階級に生まれながら奴隷解放を望んだ「アメリカの良心」であり、今後「最も偉大なアメリカ大統領」を選ぶ際には、必ずその名が挙がる人物でしょう。
ただし、アメリカ大統領を評価する際には、奴隷制政策についても触れなければなりません。彼は21世紀になった今でも完全には解決されていない、アメリカ社会の根深い問題を残したのです。
とはいえ、その意味においてもトーマス・ジェファーソンは論争の余地のない偉大な大統領であり、史上最も傑出した大統領の一人であると言うのが妥当でしょう。