1850年代のアメリカ合衆国における南北間の最大の争点は、奴隷制およびその新たな領土への拡大でした。北部の自由州と南部の奴隷州はこの問題をめぐって激しく対立し、その緊張は最終的に南北戦争(1861年〜1865年)という悲劇的な結末へと向かっていきました。
なぜ領土への奴隷制拡大が問題となったのか
西部へ新しい州が次々と加わるにつれ、「その州を自由州にするか、奴隷州にするか」が連邦議会における勢力バランスを直接左右するようになりました。南部は農園経済を維持するために奴隷制の拡大を求め、一方の北部は自由労働に基づく経済体制を守る立場から拡大に強く反対しました。単なる道徳的問題にとどまらず、政治的・経済的な生存権をかけた攻防だったのです。
対立を深めた一連の出来事
1850年協定
カリフォルニアの自由州としての加盟をめぐり、南北は一時的に妥協しました。しかし、この協定には逃亡奴隷法が含まれており、北部の人々の反奴隷制感情をかえって強める結果となりました。
カンザス・ネブラスカ法(1854年)
この法律は、新しい領土の住民自身に奴隷制の可否を決めさせる「人民主権」の原理を採用しました。その結果、カンザスでは賛成派と反対派が武装衝突する「流血のカンザス」と呼ばれる混乱状態が発生し、国内の分裂を決定的に深めました。
ドレッド・スコット判決(1857年)
最高裁判所の判決は、黒人に市民権がないこと、そして議会が領土における奴隷制を禁止する権限を持たないことを認めました。この判決は北部の憤慨を買い、妥協の余地をさらに狭めました。
内戦への帰着
こうした対立の積み重ねの中で、奴隷制拡大に反対する共和党のエイブラハム・リンカーンが1860年の大統領選挙で当選します。これに反発した南部諸州は相次いで連邦からの脱退を宣言し、1861年にサムター要塞での戦闘を皮切りに南北戦争が勃発しました。
つまり、1850年代の南北間の主要問題は奴隷制とその領土への拡大であり、この争点こそがアメリカ史上最も犠牲の大きい内戦を引き起こした根本原因だったといえるでしょう。