西部拡大がもたらした国家の危機
19世紀のアメリカ合衆国における西部への領土拡大は、「新たに獲得した領土で奴隷制を認めるべきか否か」という問いを突きつけ、奴隷制問題を国家規模の危機へと発展させました。領土が西へ広がるにつれ、北部と南部はそれぞれ異なる思惑をもって新天地の主導権を争いました。この対立は激烈な政治闘争と国内の深刻な分裂を引き起こし、最終的には南北戦争(1861年〜1865年)の勃発へとつながっていったのです。
危機へと導いた10の転換点
1. ルイジアナ買収(1803年)
フランスから広大なルイジアナ準州を買収したことで、奴隷制問題は全国的な論争の的中心となりました。北部は奴隷制の拡大を抑制しようとし、南部は新領土への奴隷制延長を求めたため、両者の対立が表面化しました。
2. ミズーリ協定(1820年)
奴隷州ミズーリと自由州メインの同時加盟により、上院における自由州と奴隷州の勢力均衡が一時的に保たれました。また、この協定ではルイジアナ買収地内の北緯36度30分線が、以後の自由地域と奴隷地域を分かつ境界線として定められました。
3. テキサス併合(1845年)
奴隷制を維持していた旧メキシコ領テキサスの併合は、南北間の緊張をさらに高める結果となりました。テキサスの奴隷州としての加盟問題をめぐって議会で激しい論争が巻き起こり、奴隷制擁護派と反対派の溝は一層深まりました。
4. 米墨戦争(1846年〜1848年)
メキシコとの戦争の結果、アメリカはカリフォルニア、ニューメキシコ、アリゾナなどを含む南西部の広大な領土を獲得しました。これらの新領土で奴隷制を容認するかどうかが、国家最大の争点となったのです。
5. カリフォルニア・ゴールドラッシュ(1848年)
カリフォルニアでの金鉱発見は、全国のみならず世界各地からの人々の大量移住を引き起こしました。多様な移住者が流入する中で、カリフォルニアを自由州として連邦に加えるべきか、それとも奴隷州とすべきかをめぐる議論が白熱しました。
6. 1850年協定
1850年協定は、カリフォルニアを自由州として加盟させる一方、奴隷制について明言しない形で4つの新準州を編成し、さらに脱走奴隷法を制定して北部の人々にも逃亡奴隷の捕縛・送還への協力を義務付けることで、南北の緊張緩和を図りました。しかし、この妥協は決定的な解決にはなりませんでした。
7. カンザス・ネブラスカ法(1854年)
同法はミズーリ協定を撤廃し、準州の住民自らが奴隷制の可否を決める「人民主権」の原理を採用しました。その結果、奴隷制擁護派と反対派の入植者がカンザスへ殺到して暴力的衝突が頻発し、「流血のカンザス(Bleeding Kansas)」と呼ばれる混乱期が訪れることになりました。
8. ドレッド・スコット判決(1857年)
連邦最高裁判所はドレッド・スコット事件において、アフリカ系アメリカ人は市民権を有せず、連邦裁判所に訴えを提起できないとの判決を下しました。この判決は「奴隷制は特定の地域に限定され、自由州では存在しえない」という考えに真っ向から対立するものであり、南北間の緊張を決定的に悪化させました。
9. ジョン・ブラウンの襲撃(1859年)
廃奴主義者ジョン・ブラウンが指揮した、バージニア州ハーパーズ・フェリーにある連邦武器庫への襲撃は失敗に終わり、奴隷反乱の扇動という狙いは果たされませんでした。しかしこの事件は、南北双方の恐怖と不信を一層煽り、国家を内戦へと押し進める大きな要因となりました。
10. リンカーンの当選(1860年)
反奴隷制の綱綱領を掲げたエイブラハム・リンカーンの大統領当選は、奴隷制問題をめぐる妥協と調整の時代の終焉を意味しました。リンカーンの当選を受け、南部諸州が相次いで連邦から離脱(南部連合の結成)し、1861年についに南北戦争が勃発したのです。
まとめ
西部への拡大は、新たに獲得された領土への奴隷制拡大をめぐる北部と南部の根本的な見解の相違を浮き彫りにしました。その後繰り返された政治的攻防と一連の妥協の試みは、かえって国内の亀裂を深めることとなり、最終的には奴隷制問題を最大の争点とする南北戦争へと至ったのです。西部の開拓は単なる領土拡大ではなく、アメリカという国家の存続を左右する運命的な試練だったといえるでしょう。