北米の歴史

核戦争寸前だった13日間——冷戦最大の危機「キューバミサイル危機」で何が起きたのか?

1962年10月16日から28日にかけて発生した「キューバミサイル危機」は、米ソという二つの超大国が核戦争の瀬戸際まで迫った、冷戦期における最も危険な出来事として知られています。

危機の発端

1962年10月、アメリカの偵察機U-2が撮影した空中写真により、キューバ国内でソ連が核ミサイル基地を建設していることが発覚しました。キューバはフロリダ州からわずか約145キロ(90マイル)しか離れておらず、ソ連製ミサイルが配備されれば、アメリカ本土の広範囲が核攻撃の射程内に収まることになります。

ケネディ大統領の決断——海上封鎖

ジョン・F・ケネディ大統領は、即時の軍事攻撃ではなく「海上封鎖(検疫)」を選択しました。これは、さらなるソ連製兵器がキューバへ搬入されるのを防ぐための措置です。これに対しソ連は潜水艦や軍艦を現場海域へ派遣し、両国の対立は一気に先鋭化していきました。

世界が息をのんだ13日間

その後数日間、米ソ両国は戦争の一歩手前で緊張状態が続きました。世界中の人々が核戦争の恐怖に怯え、歴史家たちはこの期間を「人類が最も核戦争に近づいた瞬間」と評しています。実際、封鎖線付近ではソ連の潜水艦が爆撃訓練用の深水爆弾を受け、核魚雷の使用が検討されるなど、一歩間違えれば全面戦争に突入しかねない場面もありました。

妥協による解決

最終的に、ニキータ・フルシチョフ第一書記率いるソ連は、アメリカがキューバを侵略しないことを約束するのと引き換えに、ミサイルの撤去に同意しました。また、非公開の合意として、アメリカ側がトルコに配備していたミサイルを撤去することも取り決められたとされています。

冷戦の転換点となった危機

キューバミサイル危機は、双方が自国の利益を守るためなら核戦争のリスクさえ冒しうることを浮き彫りにし、冷戦の大きな転換点となりました。この教訓を受けて、米ソ間にはホットライン(首脳直通電話)が設置され、翌1963年には部分的核実験禁止条約(PTBT)が調印されるなど、核戦争を回避するための枠組み作りが本格的に進むことになりました。