オセアニアの歴史

山本五十六はアメリカにいたことがあるのか?留学・駐米武官時代とその最期

結論から述べると、山本五十六はアメリカ本土に長期滞在した経験があります。第二次世界大戦中は大日本帝国海軍の連合艦隊司令長官として日本にありましたが、それ以前の青年将校時代には、二度にわたって通算およそ6年間アメリカで暮らしていました。

ハーバード大学への留学(1919年〜1921年)

山本は1919年、海軍の派遣留学生としてアメリカへ渡り、マサチューセッツ州ケンブリッジにあるハーバード大学で英語や経済学を学びました。この留学期間に英語に堪能となり、後の外交交渉や対米戦略の立案に大きく役立つことになります。

駐米海軍武官としてのワシントン勤務(1925年〜1928年)

帰国後、再びアメリカへ渡り、今度はワシントンD.C.の駐米日本大使館付き海軍武官として勤務しました。武官時代にはほぼ単身で自動車を運転し、テキサス州の油田地帯やデトロイトの自動車工場など、広範囲に及ぶ視察旅行を行っています。

こうした旅を通じて、アメリカの豊かな天然資源と圧倒的な工業生産力を自らの目で確かめたのです。

アメリカ体験がもたらしたもの

これらの経験により、山本はアメリカの国力を誰よりも深く理解する海軍士官となりました。日米開戦前には「アメリカとの戦争に勝ち目はない」と語ったと伝えられています。一方で、開戦が不可避な情勢の中では、短期決戦による早期講和を目指す奇襲作戦、すなわち真珠湾攻撃の計画と指揮を主導しました。

ブーゲンビル島上空での最期

1943年4月18日、前線視察のためソロモン諸島へ向かった山本の搭乗機は、アメリカ軍のP-38ライトニング戦闘機部隊によって撃墜されました。これは日本軍の暗号解読情報に基づく待ち伏せ攻撃であり、山本はブーゲンビル島上空で戦死しました。満59歳でした。

ハーバードでの学生生活から連合艦隊司令長官へ、そして南太平洋上空での最期まで――山本五十六の人生は、アメリカとの深い関わりを抜きには語れないのです。