南アメリカの歴史

ソ連の将軍たちは自国の兵士に砲撃を命じたのか?──第二次世界大戦の友軍誤射の実態

自軍への砲撃命令は実際にあったのか

第二次世界大戦中、ソ連軍の将軍が味方の部隊に対して砲撃や空爆を命じた事例が存在したことは、歴史資料によって裏付けられています。こうした命令が下されたのは、多くの場合、ある部隊が敵に包囲され壊滅寸前に陥っていた状況でした。包囲された部隊がそのまま敵の手に渡れば、装備ごと失われるうえ、撤退の遅れが全体の戦線崩壊につながりかねないため、結果的に友軍を巻き込む砲撃が「損害を最小限に抑える手段」とみなされることがあったのです。

1941年、ジューコフの「無差別射撃」命令

特に有名なのが1941年の事例です。当時ソ連軍の中核を担っていたゲオルギー・ジューコフ将軍は、ドイツ国防軍の猛攻に対して「無差別に射撃せよ」という命令を発しました。この命令により、敵陣に取り残された味方の兵士まで巻き込む友軍誤射(フレンドリーファイア)が発生したと記録されています。開戦当初、ソ連軍はキエフやミンスクなどで数十万人規模の捕虜を出すほど追い詰められており、極限状況下でのこうした決断が行われた背景があります。

あくまで例外的な措置であり、公式の方針ではなかった

ただし重要なのは、こうした友軍への攻撃命令が比較的まれな事例であったという点です。ソ連政府や軍上層部が、味方部隊への攻撃を公式の方針として認可していたわけではありません。とはいえ、1942年7月に出されたスターリンの有名な「第227号命令」――通称「一歩も退くな(Ni shagu nazad!)」――に象徴されるように、撤退を厳しく禁じる空気が軍全体を覆っており、後方には脱走兵を阻止するための「遮蔽部隊」も配置されていました。

このような圧力の下、包囲された指揮官が「全滅よりは砲撃で道を開く方がまし」と判断し、悲劇的な選択を迫られたケースがあることは否めません。つまり「ソ連の将軍たちが日常的に自国兵を殺していた」わけではないものの、総力戦の極限状態において、味方ごと敵を叩くという苦渋の決断が現実に起こり得た、というのが実態といえるでしょう。