宗教改革の中心人物であるマルティン・ルターは、当初、農民たちの不満や社会正義への要求に対して一定の理解を示していました。1520年の小冊子『キリスト者の自由』の中で、彼は「諸侯の権力には限界があり、農民は福音に反する不正な君主の命令に従う義務はない」と述べ、支配者への無条件の服従を否定する立場を取っていたのです。
急転したルターの態度
しかし、1524年から始まったドイツ農民戦争が激化し、各地へと拡大するにつれ、ルターの姿勢は劇的に変化しました。彼は農民たちの行動を「殺人と略奪の徒」と痛烈に非難し、諸侯に対して武力による鎮圧を促すようになったのです。
1525年に発表された小冊子『殺人強盗の農民の一団に抗して』の中で、ルターはこう記しています。「ゆえに、できる者は誰でも、密かにであれ公然とであれ、打ち倒し、殺し、刺し貫くがよい。反逆する者ほど有毒で有害であり、悪魔的な存在はないのだから」。
態度変化の背景にある三つの要因
ルターがこのように急激に立場を変えた理由には、いくつかの要因が考えられます。
1. 宗教改革への悪影響を懸念
第一に、農民反乱がプロテスタント改革運動そのものを傷つけることを恐れた点が挙げられます。当時の宗教改革は、カトリック教会や神聖ローマ皇帝からの激しい弾圧に直面しており、反乱との結びつきは改革運動にとって致命的になりかねませんでした。
2. 農民の要求を非現実的と判断
第二に、ルターは農民たちが求めた社会改革や経済改革の要求を非現実的であり、さらなる混乱と流血しか招かないと考えていました。
3. 当時の社会秩序観の影響
第三に、ルター自身の社会秩序に関する見解が、支配者の権威と被支配者の服従を重んじる当時の伝統的な身分制社会の価値観に深く根ざしていたことも無視できません。
農民側を支援し続けた急進改革者たち
一方、ルターとは対照的に、トーマス・ミュンツァーら一部の急進的な改革者たちは、最後まで農民たちとその闘いを支持し続けました。ミュンツァーは、農民には抑圧的な支配者に抵抗し、より公正で平等な社会秩序を築く権利があると主張しました。
しかし結局、農民反乱は鎮圧され、諸侯たちは農民に対する支配力を再確立することとなりました。この出来事は、宗教改革が社会変革運動とどう向き合うべきかという課題を浮き彫りにし、後世の歴史評価においても議論の対象となり続けています。