1930年代のアメリカ合衆国において、アフリカ系アメリカ人は深刻な差別に直面し、多くの基本的な市民権を否定されていました。しかし同時に、この不平等に対抗しようとする重要な裁判や公民権運動も数多く存在しました。ここでは、1930年代の黒人に関連する主要な出来事や権利の動向をご紹介します。
1. 投票権
1870年に批准された憲法修正第15条により、州が人種を理由に投票権を否定することは禁止されていました。しかし現実には、南部の多くの州が人頭税、識字テスト、祖父条項(祖父条項=祖先が投票権を持っていた者に限るという規定)、さらには暴力といった様々な制限措置を駆使し、アフリカ系アメリカ人の選挙権を事実上奪い続けていました。
2. リンチ禁止法
横行する黒人へのリンチに対処するための連邦法制定を求める声が高まっていました。1922年にはダイアー法案が下院を通過するなど、繰り返し法案が提出されましたが、上院の議事妨害(フィリバスター)によって成立には至りませんでした。連邦反リンチ法がようやく実現するのは、それから約100年後の2022年のことでした。
3. 人種隔離とジム・クロウ法
当時、人種隔離は合法であり、国内の多くの地域で強制されていました。ジム・クロウ法は、学校、交通機関、レストラン、トイレなどの公共施設・サービスにおいて、黒人と白人の分離を義務付けていました。「分離すれども平等」の名の下に、黒人用施設は白人用に比べて著しく劣悪であることがほとんどでした。
4. スコッツボロ事件(1931〜1937年)
「スコッツボロ・ボーイズ」と呼ばれる9人のアフリカ系アメリカ人男性が、アラバマ州で2人の白人女性を暴行したという虚偽の告発を受けました。1932年、最高裁判所は弁護を受ける権利が侵害されたとして有罪判決を破棄しました(パウエル対アラバマ州裁判)。その後も再審と投獄が繰り返されましたが、この事件は1935年のノリス対アラバマ州裁判における「陪審員選出からの人種差別の排除」という重要な判例を生み出し、公民権史上の転換点となりました。
5. ニューディール政策と人種的平等
フランクリン・D・ルーズベルト大統領のニューディール政策は、経済格差に対処する政策を導入しましたが、黒人コミュニティへの効果は限定的でした。アフリカ系アメリカ人は各種プログラムへのアクセスにおいて差別に直面し、さらに社会保障法は農業従事者と家事使用人を除外対象としていましたが、これらはまさに黒人が多く従事していた職種だったのです。
6. 全国有色人種地位向上協会(NAACP)
NAACPは、差別に異議を唱え、市民権のために戦う活動を粘り強く続けました。訴訟や啓蒙活動を通じて、この組織は黒人の権利を前進させ、人種隔離を解体する上で極めて重要な役割を果たしました。1930年代には反リンチ立法に向けたロビー活動も本格化し、後の公民権運動の基盤を築きました。
7. アフリカ系アメリカ人の報道と文学
1930年代は、アフリカ系アメリカ人の文学と芸術が花開いた時代でもありました。リチャード・ライト、ラングストン・ヒューズ、ゾラ・ニール・ハーストン、クロード・マッケイといった作家たちは、その作品を通じて黒人の経験を表現し、人種的な固定観念に挑戦しました。また『ピッツバーグ・クーリエ』や『シカゴ・ディフェンダー』といった新聞は、黒人の声を発信する重要なプラットフォームとなりました。
8. 自衛と解放を掲げた運動の萌芽
黒人の自衛と解放を提唱する組織の流れも、この時代に存在しました。1919年に設立された「アフリカ血盟団」は、黒人民族主義の先駆的存在であり、その思想は後の運動へと受け継がれていきました。1960年代に世界的に有名となるブラックパンサー党のような急進的な黒人解放運動の思想的ルーツの一つは、こうした1930年代以前からの潮流につながっています。
9. ハーレム・ルネサンス
1920年代に始まり1930年代へと続いたハーレム・ルネサンスは、黒人の芸術、文化、文学を称えた一大ムーブメントでした。アフリカ系アメリカ人の芸術家や知識人に自己表現の場を提供し、人種的偏見に立ち向かう力となりました。世界恐慌の影響で1930年代半ばには衰退しましたが、その文化的遺産は後の世代に大きな影響を与え続けました。
10. 続く隔離と不平等
こうした動きがあったにもかかわらず、人種隔離と不平等はアメリカ社会に深く根付いたままでした。しかし、1930年代に積み上げられた法的勝利や文化的成果は失われることなく、1950〜60年代の公民権運動へと確実に受け継がれていったのです。