南アメリカの歴史

南部諸州はなぜ奴隷制などを重要視したのか?連邦に残るために払った代償

南部諸州が譲れなかった「重要な項目」とは

19世紀のアメリカにおいて、南部諸州が国家の枠組みの中で最も重視したのは、奴隷制という制度の維持でした。綿花プランテーション経済を支える労働力として、奴隷制は南部の経済基盤であり、彼らの生活様式そのものだったからです。

さらに南部は、連邦政府が州の権限や自治権に介入することを強く警戒していました。各州が独自の判断で内政を行える「州の権利(states' rights)」の考え方は、南部の政治的アイデンティティの中核をなすものでした。

加えて、人口増加と工業化によって急速に力をつける北部への危機感も無視できません。北部の影響力が拡大すれば、連邦議会における南部の発言力が相対的に低下し、自らの利益が脅かされると考えられていたのです。

連邦に留まるために支払った代償

南部諸州は、合衆国の一員として残るために幾つもの譲歩を強いられました。まず1820年のミズーリ妥協では、北緯36度30分より北での奴隷制禁止を受け入れざるを得ませんでした。これは西部開拓に伴う奴隷制の拡大を制限する、大きな転換点となりました。

次に1850年の逃亡奴隷法では、すべての市民に逃亡奴隷の捕縛と返還への協力義務が課されることになりました。自由州に住む黒人までが誤って捕らえられる事態も生じ、南北間の対立をさらに深める結果となりました。

そして何よりも大きな代償となったのが、北部との緊張の高まりです。度重なる妥協にもかかわらず対立は解消されず、1861年についに南北戦争が勃発しました。

南北戦争という究極の代償

南北戦争は60万人以上の命を奪った、アメリカ史上最も犠牲の大きい内戦となりました。戦争は南部同盟(アメリカ連合国)の敗北と奴隷制の廃止によって終結します。

敗戦後、南部諸州は経済と社会の再建(レコンストラクション)を余儀なくされました。プランテーション経済の崩壊、インフラの破壊、人種関係の再編など、戦後の南部は数十年にわたって多くの困難に直面することになったのです。