ヨーロッパの歴史

イザベル・ゼンダル――史上最大の慈善遠征に参加した女性

史上最大の慈善事業の例は、帽子から取り出したウサギのような奇跡ではない。それは、ワクチンを発見した医師エドワード・ジェンナーの言葉にこそ見出せる。

「歴史の記録の中に、これほど高貴で偉大な慈善の例が将来現れるとは、私には想像できない」

ドイツの博物学者にして探検家、近代地理学の父と称されるアレクサンダー・フォン・フンボルトも、まったく同じ評価を下している。

「この旅は、歴史の記録の中で最も記憶に残るものとして残るだろう」

これが、その「旅」の物語である。

王立慈善ワクチン遠征隊の誕生

19世紀初頭、アメリカ大陸で天然痘の大流行が起きているという知らせがスペインに届いた。国王カルロス4世は、新大陸へワクチンを届ける計画の策定を直ちに命じた。当時、膿疱から採取したウイルス含有液は、ガラス容器の間で移し替えてパラフィンで封をすれば、短期間なら保存することができた。しかし問題は、約2ヶ月におよぶ大洋横断の航海である。ウイルスを「生きた」まま長期間維持できる、別の方法が必要だった。

複数の案が提出され、長所と短所を検討した結果、フランシスコ・ハビエル・バルミス医師の提案が採用された。それは、子どもたちによる人間の連鎖を通じて、腕から腕へとウイルス液を移していくという画期的な方法だった。

1803年6月5日、カルロス4世はワクチンをアメリカへ運ぶための勅令「王立慈善ワクチン遠征隊」に署名し、王室がその費用を負担した。この大事業の目的は次の3つである。

  • スペインからすべての海外領土(アメリカ大陸にとどまらない)へワクチンを届けること。
  • 訪問先の地域の医師に接種技術を指導し、長期にわたって接種活動を持続できるようにすること。
  • 各領土に「接種委員会」を設置し、活性ワクチンの保存・生産・供給の拠点として、接種キャンペーンを恒久的に維持すること。

イザベル・ゼンダル――史上最大の慈善遠征に参加した女性

「ワクチン供給児」と呼ばれた子どもたち

看護師、実習生、その他の補助者からなる遠征隊を率いたのは、フランシスコ・ハビエル・バルミス医師と、その副官ホセ・サルバニー医師である。この途方もない事業を実行するには、子どもたちを「募集」する必要があった。条件は、大人よりも天然痘に曝露している可能性が低く、健康で、6歳から9歳まで、しかも天然痘に罹患したこともワクチン接種を受けたこともない子どもである。

まず2人の子どもに接種すると、1週間ほどで牛痘特有の膿疱が現れる。そこから生きたウイルスを含む液体を採取し、さらに別の2人の子どもへ接種する。これを目的地に到達するまで繰り返すのだ。子どもたちは文字どおりウイルスの「貯蔵庫」として機能したため、「ワクチン供給児(バキニフェロ)」と呼ばれた。バルミスの計算では、大西洋を渡るのに22人の子どもが必要だった。

誰も自分の子どもをこんな危険な任務のために差し出すはずがない。そこで白羽の矢が立てられたのが、王冠の保護下にある子どもたち、すなわち孤児院(捨て子養育院)の孤児たちだった。なお特筆すべきは、慈善遠征でありながら、国王が自らの懐を開き、人員でも物資でもバルミスの要求に一切の異議を唱えなかったことである。

主人公イザベル・ゼンダルの登場

9月、作戦全体がラ・コルーニャへ移された。遠征隊はここから出航し、子どもたちもここで募集される。そしてここで、本記事の主人公が登場する。ラ・コルーニャ捨て子養育院の院長、イザベル・ゼンダル(*)である。

バルミスとイザベルの最初の接触は、医師が子どもを募集するために養育院を訪れたときだった。22人の子どもが選ばれた後、イザベルは遠征隊長に対し、彼らに同行して母親代わりの役割を担いたいと申し出た。これは当初の計画になかったことだ。実際、マドリードを出発する際に国王が承認した遠征隊員の名簿に、女性の名前はひとつも載っていない。しかし、子どもたちとイザベルの関係が、彼女自身の言葉どおりほぼ母子的なものであることを見て取ると、彼女の参加は有益だと判断され、君主宛てに要請書が送られた。当然、王は承認した――

「インディアスにおいてワクチン接種を普及させるべく派遣される遠征隊長の提議に対し、国王は、同市の捨て子養育院院長を看護の階級をもって同一遠征隊に加えることを許可される。看護師と同等の俸給および費用援助を与え、乗船すべき子どもたちの介護と清潔を担当させ、慈悲深い女性の助けなしに子どもを彼らの世話に委ねることを嫌悪する一部の親たちの不安を解消させるためである」

出航、そして壮大な旅路

1803年11月30日、コルベット艦マリア・ピタ号はラ・コルーニャ港を出航した。乗船していたのは乗組員のほか、人道支援船団のメンバー(バルミス、サルバニー、外科医2名、実習生2名、看護師3名、イザベル、そして22人の子どもたち)、必要な器具一式、さらにバルミスが翻訳したモロー・ドゥ・ラ・サルト著『ワクチンの歴史的・実践的論考』の数百部であった。

一行は1804年1月にカナリア諸島へ到着し、住民への接種と接種センターの設置を行った。2月にはプエルトリコへ、3月には現在のベネズエラの海岸へと進んだ。大陸最初の接種委員会はカラカスに設置され、ここを拠点にワクチンの普及・保存・生産が行われ、現地の医師への指導や論考の配布も実施された。この接種委員会は、遠征全体を通じて各地に設置された数多くの委員会のモデルとなった。

二手に分かれた遠征隊

カラカスで遠征隊は2つのグループに分かれた。ひとつはサルバニー率いる南進部隊で、南米各地へワクチンを届けるために出発した。もうひとつはバルミス自身の指揮する部隊で、再び船に乗ってハバナへ向かい、大陸に戻ってグアテマラ、コスタリカなどを経由してメキシコへと向かった。カラカスのモデルに倣い、可能な限り広い領域をカバーできるよう、戦略的な位置に接種委員会が次々と設置されていった。

大西洋側での任務を終えたバルミス遠征隊は、1805年2月、アカプルコ港からフィリピンへ向けて出航した。太平洋横断にもまた、接種済みの子どもたちの力を借りる必要があった。今回は26人のメキシコの子どもたちである。1805年4月、一行はマニラに到着し、フィリピン諶島への普及拠点として新たな接種委員会が設置された。ワクチンがまだ中国に届いていないことを知ったバルミスは、ポルトガル主権下のマカオへの上陸許可を求め、これが認められて中国領内へ入った。そして3年近く後の1806年9月7日、バルミスはマドリードへ帰還し、カルロス4世の出迎えを受けたのである。

一方、サルバニーの遠征は、より長く、より過酷なものだった。カルタヘナ・デ・インディアス、サンタフェ・デ・ボゴタ、キト、リマ、ラ・パスと巡った。1810年、サルバニーはこの地で生涯を閉じ、外科医のひとりマヌエル・フリアン・グラハレスが指揮を引き継いでサンティアゴ・デ・チレとチロエ諸島へ進み、1812年についにパタゴニアへ到達して南米全土を網羅した。

歴史上最も重要な保健キャンペーン

これらの事実を踏まえれば、これが歴史上最も重要な保健衛生キャンペーンであると言っても、あながち誇張ではないだろう。その理由は第一に、世界一周とも言える規模の旅とアメリカ大陸縦断という地理的スケール。第二に、その長い期間。第三に、この規模の事業を組織することの困難さ――資金調達、嵐や海賊の襲撃を伴う大洋横断航海、一部の地域における現地当局の協力不足、そして「貯蔵庫」である26人のメキシコの子どもたちや、カラカスからハバナへの旅で購入せざるを得なかった3人の奴隷の管理。そして何よりも、社会的身分にかかわらず実施された集団接種が数百万人の命を救い、さらに各国における原始的な公衆衛生ネットワークとなる接種委員会を創設した点にある。

イザベル・ゼンダル――史上最大の慈善遠征に参加した女性

母親のような存在――イザベルの役割

では、イザベルの役割とは何だったのか?それは、子どもたちの世話である。「子守」という言葉を最も広い意味で捉えてほしい。ラ・コルーニャにいたときと同じ世話を続けるだけでなく、長い航海特有の苦難(子どもたちの船酔いと嘔吐)や、熱帯のうだるような暑さにも対処しなければならなかった。忘れてはならないのは任務そのものだ。接種済みの子どもが他の子と混ざらないよう見張り、膿疱を引っ掻かず、清潔で整った状態を保つこと。ウイルスの連鎖を絶やさないためには、これが不可欠だった。

正規の看護師ではなかったが、彼女は真のプロフェッショナルのように振る舞い、不本意な主役たちである子どもたちへの愛情表現も決して忘れなかった。お世辞を言うタイプではないバルミスですら、こう記している――

「哀れな院長は、訪れたさまざまな気候の厳しさと過重な労働のために健康を完全に失いながらも、昼も夜も休むことなく、世話をする26人の小さな天使たちに、最も感受性豊かな母親の優しさを注ぎ続けた。ラ・コルーニャからそうしてきたように、すべての旅路でそうし、続く病気の間も徹底して看病した」

イザベルはバルミスとともにフィリピンまで赴いたが、彼と一緒にはスペインへ戻らなかった……といって、彼なしに戻ったわけでもない。彼女はメキシコへ渡り、ラ・コルーニャ出身の子どものひとりである息子ベニートとともにプエブラ・デ・ロス・アンヘレスに落ち着いた。そこで、彼女の足跡は歴史の中に消えていく。息子についてここまで触れてこなかったのは、本当に息子なのかどうかが明確でないからだ。もし息子だとすれば、ふたつの説がある。ひとつは養子として引き取ったという説、もうひとつは亡くなった夫との結婚で儲けた実子だという説である。

(*)イザベルの姓については複数の説があり、バルミス自身の文書の中でも異なる姓で言及されている(Zendal、Cendales、Sendales、Cendal、Cendala、Sandallaなど)。