
コンスタンティノス・グライツァス・パレオロゴスは、ビザンツ帝国末期における最も勇猛でありながら、意外にもほとんど知られていない人物の一人である。パレオロゴス帝室の血を引く彼は、幾度となく武勇を示してきた。1458年にはアテネのアクロポリスの守備に配属され、狂信的なまでの気迫でオスマン軍と戦った。
帝国滅亡後も消えなかった抵抗の火
1453年のコンスタンティノープル陥落をもってしても、ビザンツ世界の抵抗が完全に終わったわけではなかった。ペロポネソス半島(モレア)にはパレオロゴス家による「モレア専制公領」が存続しており、名ばかりの帝国の残骸とはいえ、ギリシャ人にとって最後の希望の灯であり続けていた。しかしこの政権は、常に内部対立に蝕まれていた。
専制公たちの裏切りと逃亡
1461年、オスマン帝国は専制公トマスとデメトリオス・パレオロゴス兄弟の絶え間ない争いにつけ込み、再びペロポネソスへ侵攻した。殺戮と略奪を重ねながら進軍したオスマン軍は、首府ミストラスに達する。ここでデメトリオスは一戦も交えることなく城を明け渡し、いわば「裏切りの三十枚の銀貨」ともいうべき年金と引き換えに降伏した。だが皮肉なことに、その年金すら後年には取り上げられてしまう。もう一人の専制公トマスはペロポネソスを放棄し、イタリアへ逃亡した。
サルメニコ城――最後の砦
こうしてペロポネソス最後の守護者となったのがグライツァス・パレオロゴスである。彼はアイギアレイア地方のサルメニコでオスマン軍と対峙した。当時の基準でも大規模だった人口6,000人の都市サルメニコには堅固な要塞がそびえ、これに対して数千のオスマン兵が強力な大砲を擁して攻め寄せた。1週間に及ぶ壮烈な抵抗の末、水道を破壊されて住民が渇きに苦しむに至り、市街はついに降伏を余儀なくされた。
しかしグライツァスは諦めなかった。最も意気ある部下たちとともに城塞へ退き、抵抗を続けたのである。オスマン軍は直ちに攻勢をかけたが、勇敢な守備兵たちは英雄的に戦い抜いた。最初の突撃では、城壁から浴びせられた熱した油によって、オスマン兵数十人が文字通り生きたまま溶け落ちたという。以後の攻撃もことごとく撃退され、万全の備えを整えたグライツァスとその部下たちは、まさに奇跡的な活躍を見せた。
10か月超の包囲と、巧妙な罠の見抜き
オスマン軍は10か月余りにわたり城塞の奪取を試みたが、成功しないどころか深刻な損害を被り続けた。あるとき彼らは、グライツァスに対し「部下や財産を持って自由に去ってよい、だから降伏せよ」と提案してきたことさえあった。しかし勇敢な守将はこの謀略を見抜いた。門を開け、ギリシャ風の衣を着せられたトルコ人捕虜と、石を背負わせた瀕死の女たちを城外へ送り出したのである。掠奪目当てに飛び出してきたオスマン兵は、そこで自らの本心をさらけ出すこととなった。
待ち受けていたのはグライツァスだった。城壁からは初期の小火器(アルケブス)の弾丸が唸りを上げて飛んだ。難攻不落の城塞の周囲には、オスマン兵の死体が幾十も累々と横たわったという。
「モレアで出会った唯一の人間」
結局、この膠着を打開するにはメフメト2世自身の介入が必要となった。スルタンは公衆の面前で要塞からの撤退を保証すると誓い、ようやくグライツァスはサルメニコを去ることを受け入れた。容易くペロポネソスを征服したメフメトは、グライツァスへの敬意を隠さず、「モレアで私が出会った唯一の人間」と評したと伝えられる。
グライツァスと勇士たちは、誇らしげに旗を翻しながら、整列して静寂を守るオスマン軍の前を堂々と行進し、これほど壮麗かつ熾烈に守り抜いた要塞を後にした。一行は当時ヴェネツィア支配下にあったナフパクトスへ渡り、ヴェネツィア側は喜んで彼らを自軍に迎え入れた。グライツァス自身は、その武勇を買われて騎兵隊長に任じられたのである。
小さな城塞が遺したもの
サルメニコ包囲戦は、圧倒的な兵力と火力を誇る大帝国を相手とした、規模こそ小さいが比類なき抵抗であった。帝国滅亡後もなお、一人の武人が誇りと忠義を最後まで貫き通したこの物語は、屈することなきギリシャ人の精神を象徴する逸話として、今日に語り継がれている。