ヨーロッパの歴史

トルコ人よりも「トルコ人」だったギリシャ人――アテネのオスマン帝国初代大使ムスロスの波乱の生涯

トルコ人よりも「トルコ人」だったギリシャ人――アテネのオスマン帝国初代大使ムスロスの波乱の生涯

ファナリオット出身の「親トルコ派」外交官

コンスタンティノス・ムスロス(Konstantinos Moussouros、1807年〜1891年)は、その人物像をめぐって今なお議論を呼ぶ、きわめて物議を醸した存在である。クレタ島にルーツを持つ大ファナリオット(コンスタンティノープルのギリシャ系名門)の出身で、生まれは紛れもなくギリシャ人。1840年には、オスマン帝国初代の駐ギリシャ大使に任命された。

ところがムスロスは、その言動において「トルコ人よりもトルコ人」と評されるほど、徹底して親オスマン的な姿勢を貫いた。彼は同胞であるギリシャ人の利益を顧みることなく、あくまでスルタンの利益を擁護し続けたのである。

アテネ勤務中、彼は二度にわたって外交事件を引き起こしている。しかもその背後には、当時の英国駐ギリシャ公使で、国王オソン1世の政敵として知られた策略家エドマンド・ライアンズの影があったとされる。

なぜそこまでギリシャに敵対したのか

一説によれば、ムスロスがこれほどギリシャに敵対的な態度を示したのは、トルコ側から「同胞びいきだ」と疑われることを恐れたためだという。だが、この弁明だけでは彼の行動を正当化することはできない。良心が許さないのであれば、辞任という道もあったはずだ。しかし彼にはどこか……「良心」が欠けていたようである。

旅券拒否から始まった外交事件(1847年)

1847年1月25日、国王オソンの支持者で独立戦争の闘士でもあるツァミス・カラタッソスが、イスタンブール訪問のための旅券を求めて大使館を訪れた。しかしムスロスは、「カラタッソスがマケドニアで反トルコ運動に加わった経歴がある」という理由でこれを拒否した。

この拒絶は、何よりまず国王オソン個人への侮辱であった。1月27日、宮殿でのレセプションに招かれたムスロスに対し、オソン王はこう告げた。「私は思うのですよ、殿。ギリシャの国王は、もう少し敬意を受けるべきではないかと」。そして王は、わざとらしく彼のもとを去った。

この程度の出来事、ムスロスは黙ってやり過ごすこともできたはずだ。しかし彼は、同胞を傷つける好機を逃そうとはしなかった。ライアンズの後押しのもと、彼は大仰にレセプションを退出し、ただちに本国のトルコ当局へ報告を送ったのである。

国交断絶と「苦い薬に金メッキを」

当然ながらスルタンは、ギリシャを屈辱に陥れる好機と捉え、アテネに対して公式の謝罪を要求した。しかし当時の首相イオアニス・コレティスはこれを受け入れなかった。ギリシャ側の拒否を受けて、ムスロスは2月3日にギリシャを出国。こうしてギリシャとオスマン帝国の外交関係は断絶した。

さらに同年8月、トルコ側は外交関係のみならず商業関係をも断ち切った。これはアテネにとって深刻な打撃となった。

最終的に、首相コレティスの死後、ギリシャにとって「苦い薬に金メッキを施す」ような解決策が見出された。ギリシャ政府はオスマン帝国ではなく、ムスロス個人に対して謝罪を行ったのである。もっとも、スルタン宛てにも書簡が送られている。

帰任後、今度は暗殺未遂事件

ムスロスは1848年2月8日にアテネへ戻ったが、彼をめぐるトラブルは終わらなかった。同年4月23日、トルコ大使館に勤める使用人アポストロス・ナディリスがムスロスの殺害を図ったのだ。本人の言によれば、「彼がギリシャ人を悪く言うのを、これ以上聞いていられなかった」からだという。

ムスロスは腕に軽傷を負っただけですんだ。捜査の結果、ナディリスの単独犯行であることが判明したが、ギリシャ政府が彼のトルコ側への引き渡しを拒んだことで新たな外交事件が発生し、コンスタンティノープル在住のギリシャ人に対するトルコ側の報復措置が取られた。

ウィーン転任と晩年

最終的に事件は収拾され、ムスロスはオスマン帝国のウィーン大使館へ転任となった。ギリシャの人々は、ついに「ギリシャ人」外交官から解放され、胸をなでおろしたという。

その後、彼はロンドンでも勤務し、トルコからパシャの称号を授与されている。1891年、コンスタンティノープル(ポリス)にて死去した。