
コンスタンティノープルを狙うアラブの脅威
トルコ人の登場以前、ビザンツ帝国(東ローマ帝国)の存続に対する最大の脅威は、間違いなくアラブ勢力でした。エジプトやパレスチナなど帝国領を次々と征服した彼らの最終目標は、「諸都市の女王」コンスタンティノープルの攻略にありました。
二度にわたる包囲攻撃は失敗に終わったものの、アラブ軍は怯むことなく小アジアへの侵攻を続けました。その狙いは、ボスポラス海峡の岸までビザンツの支配圏を縮小させた上で、態勢を整えて帝都へ再び総攻撃を仕掛け、そこからヨーロッパ全土をイスラムの支配下に置くことにありました。
ヒシャム・イブン・アブドゥルマリクの大遠征計画
723年以降、ウマイヤ朝のカリフの座にあったのは精力的なヒシャム・イブン・アブドゥルマリクでした。彼はビザンツ帝国の不倶戴天の敵であり、定期的に小アジアへ大規模な攻撃を仕掛けていました。兄マスラマすら717年から718年の包囲戦で落とせなかった帝都の征服こそが、彼の究極の目標だったのです。
740年、ビザンツ軍への一連の襲撃で成功を収めたヒシャムは、ついに大規模侵攻を決断します。このため彼は9万人の狂信的なムスリム戦士を動員し、小アジアへ侵入しました。
レオーン3世の苦しい戦力
皇帝レオーン3世(イサウリア出身)は、敵の襲来について事前に情報をつかんでいました。しかし、ヨーロッパ側の戦線でも脅威に直面していた彼には、それに見合う大軍を編成する余裕がありませんでした。集められたのは1万5千から2万人ほどで、その中核は帝国直轄の精鋭部隊と、東方テマ(フリュギアおよび西カッパドキア)から派遣された部隊でした。
55歳の皇帝は、22歳の息子で後継者のコンスタンティノス5世――通称「カプロニモス」、後に「ブルガリア人殺し」と呼ばれることになる男――を従軍させました。
三手に分かれたアラブ軍
アラブ侵略軍は兵力を三つに分割しました。まず1万人の部隊が、キリキア沿岸のギリシア系都市を略奪するために派遣されます。もう一つの2万人の部隊は、将軍アル=バタルとイブン・スワイブの指揮下でフリュギア方面へ進み、カリフ自身が率いる主力6万人の前衛を務めました。
レオーンとコンスタンティノスがフリュギアを拠点に選んだのは理由があります。この州は小アジア高原の中央部に位置しており、ここからならどの方向へでも軍を素早く展開できたのです。老練の武人でもある皇帝は、のちに名高いアクリタイ辺境騎士の祖先となる軽騎兵の斥候隊を各方面に放ち、常にアラブ軍の動きを把握できるようにしていました。
内線作戦による各個撃破
こうして斥候からカリフが軍を三手に分けたことを知らされたレオーンは、内線機動(ビザンツ軍が幾度も用いた戦術で、後のナポレオンも「模倣」したことで知られる)を採用し、まず2万人の部隊を攻撃対象に定めます。
判断は合理的でした。1万人の部隊では、防備を固めた沿岸都市を攻略することはほぼ不可能です。一方、カリフ直属の6万に対抗する力は当然ながらなく、仮に挑んだとしても、今度は2万人の部隊に背後から包囲される危険を抱えることになります。
アクロイノンの決戦
こうして皇帝はアクロイノンの町へ向かい、同規模のアラブ軍と遭遇してこれを完全に打ち破りました。歴史家テオファネスの記録によれば、2万人のアラブ軍のうち実に1万3,200人が、両将軍とともに戦死しています。残りの兵は撤退してカリフの本隊に合流しましたが、激怒したカリフは彼らに徹底的な略奪を命じます。
しかし、これすらも失敗に終わります。レオーンと若きコンスタンティノスはゲリラ戦術を駆使し、アラブ軍の分遣隊をことごとく壊滅させたのです。待ち伏せ攻撃により数千人のアラブ兵が討ち取られ、さらに2万人が捕虜となりました。
圧倒的勝利とその後の歴史
これはビザンツ側にとって輝かしい大勝利であり、しかも自軍の損害はごく僅かという、まさに理想的な勝利でした。屈辱を胸に、カリフは本国への帰還の道を辿るしかありませんでした。
とはいえ、アラブの脅威が消え去ったわけではありません。その影はその後2世紀にわたって帝国に覆い続け、ニケフォロス2世フォカス、ヨハネス1世ツィミスケス、そしてバシレイオス2世(ブルガロクトノス)らの時代になってようやく、帝国の国境線は再びメソポタミア地方まで押し戻されることになるのです。