
包囲戦の終結と撤退するトルコ軍
1822年12月31日、オメル・ヴリョニスとキウタヒス両パシャ率いるオスマン軍は、あらゆる攻撃に耐えて持ちこたえたメッソロンギの包囲を解いた。トルコ軍は当時「ヴラホリ」と呼ばれていたアグリニオ方面へと移動を開始したが、深刻な補給不足に陥っており、季節の影響で増水していたアケロオス川の渡河を急いでいた。
重装備や輸送物資を抱えたままでは渡河できなかったため、トルコ軍は約3,000名の別働隊を分離させた。この部隊はトゥルカールヴァン(トルコ系アルバニア人)の指揮官アゴス・ヴァシアリスとイスマイル・ハツィベンドが率い、プレヴェザへ向かってトルコ軍本隊のための食料と物資を調達する任務を負っていた。
カライスカキスの決断
ゲオルギオス・カライスカキスはこのトルコ別働隊の動きを察知し、これを阻止することを決意した。彼は800名の部下とともに、エトロアカルナニア地方の聖ヴラシオス(アギオス・ヴラシオス)峠、アロニア・コロミリアス(ソヴォラコスと呼ばれる地点)に陣取ったのである。それまでカライスカキスはトルコ軍に対して限定的な行動にとどまり、待機姿勢を保ちながら、グラファ地方の武装隊長として振る舞っていた。
1823年1月15日か17日、カライスカキスとその部下たちは現地の尾根に陣地を築いた。本人は約300名とともにギリシャ軍戦列の中央に位置した。トルコ軍が到着すると通行の自由を求めてきたが、カライスカキスはいつものように演技を続け、彼らをトルコ正規軍からの脱走兵だと見なしており、「グラファ地方にトルコ人は立ち入れない」という取り決めがあると告げた。
戦闘前夜――ストゥルナラスの証言
戦闘に参加したザカリアス・ストゥルナラスの証言によれば、戦闘は1月17日に行われ、その前にカライスカキスは部下たちにこう語りかけたという。
「さあ、今こそ全員で祈りを捧げよう。明日は聖アントニオスの祝日だ。我らの勝利を助けてくれるよう、蝋燭を一本捧げよう。全員、十字を切り、それぞれの持ち場へ就け……」
賄賂の拒否と一騎打ち
ハツィベンドはギリシャ軍の様子を見て、カライスカキスに数万グロシア(銀貨)を積んで買収しようとした。カライスカキスはこれを拒否し、トルコ軍は前進を開始した。カライスカキスは部下に対し、まずトルコ軍の将校を狙い撃ちせよと命じていた。そこでハツィベンドはカライスカキスに一騎打ちを挑んだ。トルコ側が先に発砲したが外れた。対するカライスカキスはハツィベンドを撃ち倒した。なお、他の資料ではトルコ軍指揮官を射殺したのはストゥルナラスだったと伝えられている。
「ここで共に死のう」――中央の死守と反撃
カソムリスの記録によれば、トルコ軍は猛然と攻撃を仕掛け、ギリシャ軍の右翼と左翼を後退させた。しかしカライスカキスだけは戦列の中央で微動だにしなかった。「ここで共に死のう!」と叫んだカライスカキスは、猛烈な勢いで敵への発砲を続けた。指揮官が踏みとどまる姿を見た退却しかけていたギリシャ兵たちは、引き返して狂熱の形相でトルコ軍に反撃を開始した。
トルコ軍はギリシャ軍の「ユルーシ」(突撃の雄叫び)に耐えることができなかった。200名以上のトルコ人とトルコ系アルバニア人が戦死し、残りは士気を崩してアグリニオへ逃げ帰った。ギリシャ側の犠牲者は20名で、その中にはカライスカキスの第一副官であるバコヤンニスも含まれていた。ストゥルナラスは、ギリシャ側の死者7名、追撃段階での行方不明6名、負傷23名とし、トルコ側の損害を300名の戦死としている。
敗走とアケロオス川の惨劇
戦闘の後、オメル・ヴリョニスとキウタヒスの軍はアケロオス川の渡河を余儀なくされた。その結果、500名以上の兵士が水死し、多くの輸送物資も失われることになった。両パシャの軍が通過した渡河点を案内したのは、首領ゴゴス・バコラスであった。トルコ軍は最終的に2月8日にアンフィロキア(当時カルヴァサラ)へ到達し、そこから船でプレヴェザへと渡った。
革命における最初の勝利
これが実質的に、ゲオルギオス・カライスカキスにとって1821年の独立革命における最初の本格的な戦闘であり、最初の勝利であった。700名を超えるトルコ・アルバニア兵の戦死に加え、ギリシャ側に優れた戦士にして戦略家の獲得をもたらしたことが、トルコにとって最大の損失となったのである。こうして名声を確立したカライスカキスであったが、その他のさまざまな要因のため、その才能が直ちに十分に活用されることはなかった。