ロシア帝国最後の皇帝——ニコライ2世
共産主義者が政権を掌握する前のロシア帝国において、最後の皇帝となったのはニコライ2世(ニコライ・アレクサンドロヴィチ・ロマノフ)です。彼は1894年11月1日に即位し、1917年3月15日に退位を強いられるまで在位しました。その治世は、ロシア帝国の終焉、1905年革命と1917年の革命、そしてボリシェヴィキによる一家の悲劇的な処刑へとつながっていきました。
在位期間と治世の課題
ニコライ2世は父アレクサンドル3世の死去に伴い皇帝に即位しました。しかし、専制政治への固執、日露戦争(1904〜1905年)での敗北、急速な工業化に伴う社会不安の高まりなどにより、その統治は当初から困難を極めました。
1905年革命と「血の日曜日」事件
1905年1月、首都サンクトペテルブルクで皇帝への請願行進を行っていた労働者らに軍隊が発砲する「血の日曜日」事件が発生します。これをきっかけに全国で暴動やストライキが拡大し、第一次ロシア革命(1905年革命)が勃発しました。ニコライ2世は同年10月に「十月宣言」を発布して議会(ドゥーマ)の設置などを約束しましたが、立憲君主制への移行は不完全なまま終わりました。
1917年の革命と退位
第一次世界大戦中の1917年2月(旧暦)、食糧不足と戦争疲弊を背景にペトログラードで大規模なデモと兵士の反乱が発生し、二月革命が起こりました。これにより帝政は崩壊し、ニコライ2世は1917年3月15日に退位を余儀なくされました。ここに300年以上続いたロマノフ朝とロシア帝国の歴史に幕が下ろされたのです。
一家の悲劇的な最期
退位後、皇帝一家は監禁され、1918年7月17日、ウラル地方のエカテリンブルクにて、皇后アレクサンドラ、皇女たち、皇太子アレクセイとともにボリシェヴィキによって処刑されました。その後、ロシアでは共産主義者(ボリシェヴィキ)によるソビエト政権が確立され、同国は共産主義国家への道を歩み始めることになりました。