第一次世界大戦において、毒ガスは交戦双方の陣営によって広範かつ効果的に使用されました。しかし同時に、毒ガスは戦争の帰趨を決める「決定打」にはなり得ませんでした。その背景には、報復攻撃への恐れと、防護技術の急速な進歩がありました。
史上初の本格的な毒ガス攻撃――第二次イーペル会戦
1915年4月22日、ベルギーのイーペル近郊で行われた第二次イーペル会戦において、ドイツ軍は前線に並べた5,730本のボンベを同時に開放し、約150トンの塩素ガスを放出しました。黄緑色のガスの雲は風に乗って連合軍の塹壕を覆い、フランス軍およびアルジェリア人部隊に甚大な死傷者をもたらしました。これが近代戦における最初の大規模な化学兵器攻撃とされています。
大戦を通じて拡大した毒ガスの使用
この攻撃を皮切りに、塩素ガスにとどまらず、より致死性の高いフォスゲンや、皮膚をただすマスタードガス(びらん剤)などが次々と戦場に投入されました。推計によれば、大戦中に使用されたガスボンベは約1万本に上るとされます。毒ガスによる死傷者は100万人以上、うち死亡者は数万人規模に達したと推定されており、毒ガスは塹壕戦の恐怖を象徴する存在となりました。
それでも決定打にならなかった理由
毒ガスが本来の威力以上には使用されず、戦争を決める兵器になり得なかった最大の要因は、報復措置と技術的改善の2点です。
- 報復の抑止力:一方が毒ガスを使用すれば、相手側も必ず報復した。その結果、双方とも大規模な使用に慎重にならざるを得ませんでした。
- ガスマスクの普及:防毒マスクの性能が急速に向上し、致命的な被害を与えることが次第に難しくなりました。
- 気象条件への依存:毒ガスの効果は風向きや気温に大きく左右され、場合によっては自軍に被害が及ぶリスクも抱えていました。
大戦後の国際社会への影響
第一次世界大戦における毒ガスの惨禍は、1925年のジュネーブ議定書による化学兵器使用禁止につながりました。しかしその恐怖は、その後の歴史にも長く影を落とすこととなります。
このように毒ガスは第一次世界大戦で確かに「有効」な兵器として多くの犠牲者を生みましたが、報復という抑止と防護技術の発展によって、戦争の勝敗を決める決定的な兵器にはなり得なかったのです。