ヨーロッパの歴史

1939年〜1941年、独ソ不可侵条約(モロトフ・リッベントロップ協定)への世界の反応はどう変化したのか?

1939年:締結直後の世界の反応

1939年8月23日に締結された独ソ不可侵条約(モロトフ・リッベントロップ協定)は、発表されるやいなや西側諸国に大きな衝撃を与えました。フランスやイギリスは、この協定をチェコスロバキアに対する裏切りであり、ナチス・ドイツの侵略的な野心を示す証拠であると強く非難しました。

さらに、この協定には東欧における勢力圏を両国間で分割する秘密議定書が含まれていたことが後に明らかになり、同年9月のポーランド侵攻へとつながったことから、批判は一層強まりました。

一方、ソ連はこれに対し、ドイツの軍事的台頭や西側諸国による宥和政策(ミュンヘン会談など)への対応として、自国の安全保障と利益を守るための防衛的な措置であると主張しました。スターリン政権にとって、この協定は時間稼ぎであり、西側との対立を避けるための現実的な選択だったのです。

1941年:ドイツのソ連侵攻による転換点

世界の反応が劇的に変化したのは、1941年6月22日、ドイツが「バルバロッサ作戦」を発動してソ連に侵攻し、不可侵条約が事実上破棄されたときです。

それまで共産主義国家として警戒されていたソ連は、一夜にしてナチス・ドイツに対抗する重要な潜在的同盟国へと位置づけられました。特にアメリカは、レンドリース法に基づいて武器、食料、資材などの大規模な援助をソ連に供給し始め、その戦争遂行能力を大きく支えました。イギリスもまた、直ちにソ連との協力関係の構築に動きました。

協定の評価の変化

こうした経緯により、当初は激しい非難を浴びたモロトフ・リッベントロップ協定は、まったく異なる視点から見られるようになりました。この協定は、地政学的状況がもたらしたやむを得ない事情により、対立する二つの大国が一時的に結んだ取り決めであると受け止められるようになり、その否定的な印象は次第に薄れていったのです。

ただし、戦後になって秘密議定書の存在が公式に認められると、ポーランドやバルト三国など東欧諸国への影響が改めて問い直され、歴史的な批判の対象として再び注目を集めることになりました。