ビスマルクが最大のライバルとみなしたのは「オーストリア」
19世紀半ば、プロイセン王国の首相オットー・フォン・ビスマルク(Otto von Bismarck)は、ドイツ民族のリーダーシップ(主導権)をめぐる最大のライバルとしてオーストリアを明確に位置づけていました。
当時のドイツ情勢――二つの大国の対立
当時のドイツは、統一国家ではなく、オーストリアとプロイセンという二つの強国を中心とした大小39の邦国からなる緩やかな連合体でした。このため、ドイツ統一を主導する座を巡って、両国は長年にわたり覇権を争ってきました。
特に1815年以降、ウィーン体制のもとでオーストリアは「ドイツ連邦」議長国としてドイツ圏内での影響力を維持していました。一方のプロイセンも、経済的・軍事的な実力を背景に、その地位への挑戦を強めていきます。
ビスマルクの戦略と「普墺戦争」
1862年にプロイセン首相に就任したビスマルクは、「鉄血演説」に象徴される現実政治(リアルポリティーク)を掲げ、ドイツ統一を実現するうえでオーストリアの排除が不可欠であると考えました。
その結果、1866年にはプロイセンとオーストリアが直接衝突する普墺戦争(七週間戦争)が勃発します。プロイセンはケーニヒグレーツの戦いで決定的な勝利を収め、翌年にはオーストリアを除いた北ドイツ諸邦による「北ドイツ連邦」を結成しました。
ライバル排除の先にあったドイツ統一
さらにビスマルクは、対フランスとの関係を利用して南ドイツ諸邦を取り込み、1870年からの普仏戦争の勝利を経て、1871年にヴェルサイユ宮殿でドイツ皇帝の即位式を挙行。ここにプロイセンを中核とするドイツ帝国が誕生し、かつてのライバル・オーストリアをドイツ圏から切り離すことに成功したのです。
このように、ビスマルクにとってオーストリアは、ドイツ統一という大目標を達成するために乗り越えるべき最大の障害であり、同時に最も重要なライバルだったといえます。