ヨーロッパの歴史

ルシタニア号事件からアメリカ参戦まで――なぜ約2年もの歳月がかかったのか?

1915年5月7日、ドイツ海軍の潜水艦U-20がイギリス客船ルシタニア号を撃沈し、乗客・乗員約1,200名が犠牲となりました。このうち128名はアメリカ人でした。しかし、アメリカがドイツに正式に宣戦布告したのは1917年4月6日、すなわち沈没からおよそ2年後のことです。「すぐに報復する」という流れではなく、開戦まで長い時間が必要でした。その背景には、いくつもの複雑な要因がありました。

根強かった中立主義の世論

第一次世界大戦当時のアメリカ国内には、「ヨーロッパの紛争に関与すべきではない」という孤立主義的な考え方が広く浸透していました。ウィルソン大統領自身も中立の維持を繰り返し強調しており、1916年の大統領選挙では「彼は我々を戦争に巻き込まなかった(He Kept Us Out of War)」というキャッチフレーズが使われるほどでした。国民の大多数にとって、海外での戦争に血を流すことは想像しがたい選択肢だったのです。

軍事力ではなく外交での解決を目指す

ルシタニア号事件の直後、ウィルソン政権は軍事報復ではなく外交的抗議を選びました。政府はドイツに対し無制限潜水艦作戦の中止を厳しく要求し、1916年には民間客船への攻撃自粛で合意させるなど、あくまで話し合いによる解決を優先しました。当時のアメリカ軍は規模が小さく、大規模な戦争に即応できる体制になかったことも、慎重姿勢の一因でした。

参戦を決定づけた二つの出来事

無制限潜水艦作戦の再開

1917年2月、ドイツはイギリスを経済的に封じ込めるため、無制限潜水艦作戦を再開しました。アメリカ籍の船舶までもが攻撃対象となり、アメリカ人の犠牲者が相次いだことで、世論は一気に硬化していきました。

ツィンメルマン電報の暴露

決定的となったのが、同年に明るみに出た「ツィンメルマン電報」です。ドイツ外相がメキシコ宛てに送ったこの秘密電報は、メキシコがアメリカとの戦争に加わるなら、テキサス・ニューメキシコ・アリゾナの旧領土回復を支援すると提案する内容で、アメリカ国民に大きな衝撃を与えました。

そして宣戦布告へ

こうした一連の出来事を受け、ウィルソン大統領は1917年4月2日の連邦議会演説で対独参戦を訴え、4月6日に議会の承認を得て宣戦布告が行われました。ルシタニア号事件はアメリカの対独感情を大きく変えた重要な転機でしたが、それ単独で開戦を決めたわけではありません。中立を守りたい国内世論、外交による解決への期待、そしてその後に起きたドイツの度重なる挑発――それらが積み重なり、約2年の時を経てアメリカは第一次世界大戦への参戦を決断したのです。