イギリスの強硬策は植民地人をどう変えたのか
イギリス政府がボストン港を封鎖し、市内に軍隊を常駐させたことによる最大の影響は、アメリカ植民地の人々を急進化させ、母国イギリスからの反乱へと突き動かした点にあります。1774年の「耐え難き諸法(強圧法)」として知られる一連の報復措置は、植民地を懲らしめる目的で出されたものでしたが、結果的には各植民地の結束を固め、独立への機運を高めることになりました。
植民地人の権利に対する侵害
まず、これらの措置は、植民地人が「イギリス臣民として当然持つべき権利」を侵害するものだと受け止められました。住民の同意なく税金を課されること、さらには街中に兵士が駐留することで私有財産や日常生活が脅かされることに、人々は強い不満と恐怖を抱きました。
また、イギリス当局は言論や集会の自由までも抑圧しようとしていると感じられました。ボストン虐殺事件やボストン茶会事件は、いずれもイギリスの政策に対する抗議行動でしたが、それに対してイギリス側は暴力と弾圧で応じました。
こうした経験を重ねるうちに、植民地人は自分たちを「独自の利益と価値観を持つ一つの民族」として意識するようになりました。もはやイギリスに忠誠を誓う必要はなく、自らの手で政府を作る権利があるのだという考えが広まっていったのです。
ボストン虐殺事件とボストン茶会事件
アメリカ独立革命につながる出来事の中で特に重要なのが、次の二つの事件です。
ボストン虐殺事件(1770年)
ボストンの街頭で、イギリス兵が市民の群衆に向けて発砲し、5人が死亡しました。この事件は反英感情を一気に煽ることとなりました。
ボストン茶会事件(1773年)
先住民モホーク族に扮した入植者たちが、茶法(Tea Act)への抗議として、港に停泊していた船から茶の積荷を海へ投げ捨てました。
これらの事件は植民地人を急進化させ、反乱へと向かう大きな原動力となりました。その後のボストン港閉鎖は、この茶会事件に対する報復として実施されたものです。
「自由の息子たち」の結成
イギリスの強硬な対応は、「自由の息子たち(Sons of Liberty)」と呼ばれる秘密結社の結成にもつながりました。彼らは抗議活動や抵抗運動を組織的に展開し、アメリカ独立戦争において大きな役割を果たすとともに、独立を求める各植民地の団結を促しました。
アメリカ独立戦争への道
こうして1775年にアメリカ独立戦争が勃発し、1783年には植民地はイギリスからの独立を勝ち取りました。ボストン港の閉鎖と軍隊の市内駐留は、革命を引き起こした最重要要因のひとつと言えるでしょう。抑圧を目的とした政策が、かえって独立への流れを加速させる结果となったのです。