ナチス・ドイツがアウシュヴィッツ強制収容所を放棄した最大の理由は、第二次世界大戦末期におけるソ連赤軍の急速な進撃でした。東部戦線で敗色が濃厚となる中、ドイツ側は収容所が包囲・陥落する前に囚人たちを移送し、大量虐殺の証拠を隠滅しようとしたのです。
ソ連赤軍の進撃と撤収の決断
1945年1月、ソ連赤軍はヴィスワ川=オーデル攻勢を開始し、ポーランド西部へと急速に進軍しました。アウシュヴィッツが占領下のポーランド南西部に位置していた以上、収容所の陥落は時間の問題となりました。
これを受け、SS(親衛隊)は1945年1月中旬から、アウシュヴィッツおよび周辺の分所からの撤収作業を開始します。約5万6千人の収容者が、徒歩または貨物列車によってドイツ国内へ移送されることになりました。
「死の行進」と呼ばれた強制移送
この撤収は単なる移動ではありませんでした。厳冬期の極寒の中を何日も歩かされ、食料や防寒具はほとんど支給されず、脱落したり立ち止まったりした者はその場で射殺されました。このため、一連の移送は後に「死の行進」と呼ばれるようになり、数千人が道中で命を落としたとされています。
一方、病気や衰弱が激しく移送できなかった約7千人の囚人は、収容所内に取り残される形となりました。
証拠隠滅のための破壊工作
SSは撤退に先立ち、ホロコーストの証拠を隠すための破壊工作を実施しました。ガス室や焼却炉の一部は爆破され、埋葬されていた遺体は焼却され、収容者の名簿などの書類の多くも焼き払われました。
しかし、ソ連軍の進撃が想定より速かったため、破壊作業は不完全なまま終わりました。その結果、収容所の建物群や、被害者から奪われた眼鏡・靴・毛髪などの膨大な遺品が現場に残されることになります。
1945年1月27日、アウシュヴィッツの解放
1945年1月27日、ソ連赤軍の部隊がアウシュヴィッツに到達し、収容所を解放しました。当時そこに残されていたのは、約7千人の消耗しきった囚人たちでした。
この日は後に、国連によって「ホロコースト犠牲者を追憶する国際デー(国際ホロコースト記念日)」に定められています。ドイツによるアウシュヴィッツの放棄とは、敗戦直前の軍事的判断と、自らの犯罪を隠蔽しようとする意図が絡み合った結果だったのです。