古代の歴史

9.11アメリカ同時多発テロとは?発生の経緯・動機・影響を徹底解説

「9月11日(9.11)」とは、2001年9月11日にアルカイダが実行した、ニューヨークの世界貿易センター(ツインタワー)とワシントンのペンタゴン(米国防総省本庁舎)に対する同時多発テロを指します。イスラム原理主義者たちが旅客機をハイジャックして標的に突入させたこの攻撃により、数千人が命を落としました。

攻撃当日の出来事

9.11テロは、アルカイダによって何年も前から準備されていた計画で、ジハード(聖戦の概念。本来はイスラム教の教義の一部ですが、原理主義グループに利用されたもの)という思想に基づいて実行されました。攻撃は綿密に練られ、19人のテロリストが旅客機のハイジャックを担いました。

テロリストたちは、アメリカ東海岸から出発しカリフォルニア方面へ向かう4つの旅客便に分乗しました。使用されたのはアメリカン航空(AA)とユナイテッド航空(UA)の便で、以下の通りです。

  1. AA11便:ボストン発ロサンゼルス行き。最初にツインタワーに突入し、北棟に激突しました。

  2. UA175便:同じくボストン発ロサンゼルス行き。2番目に突入し、南棟に激突しました。

  3. AA77便:ワシントン発ロサンゼルス行き。ペンタゴンに突入しました。

  4. UA93便:ニューアーク発サンフランシスコ行き。連邦議会議事堂への突入が予定されていましたが、目標に到達する前に墜落しました。

すべては、19人のテロリストが各便に搭乗したことから始まりました。航空機がアメリカの空域に入った後、彼らは機体の制御を奪い、計画を実行に移しました。AA11便は7時59分に離陸し、その直後の8時46分に世界貿易センターの北棟に突入しました。

世界貿易センターは7つの建物からなる複合施設で、中でもツインタワーが最も有名でした。1973年に開業し、ニューヨークのシンボルの一つとされていたこの複合施設は市の金融中心地に位置しており、攻撃時には約1万5000人が建物内にいたとされています。

その数分後の9時3分、UA175便が南棟に突入しました。2棟目への攻撃は被害をさらに拡大させ、ニューヨークでの死者数を増やしました。続く9時37分には、AA77便がペンタゴン(米国防総省の庁舎)に突入しました。

この頃には、アメリカがテロ攻撃を受けているという情報は当局だけでなく一般の人々にも伝わっており、UA93便の乗客たちもその事実を知ることになりました。乗客は電話などで機外の知人と連絡を取り、状況を把握したのです。

UA93便の乗客たちはテロリストに反抗し、乗っ取られた機体の運命は変わりました。テロリスト側は目標への到達を断念し、10時3分、ペンシルベニア州シャンクスビル近郊の田園地帯に墜落させました。この便の標的は、米国の立法府の中心である連邦議会議事堂だったと考えられています。

攻撃が始まると、当局は死者を最小限に抑えるべく救出活動に奔走しました。最初の塔への突入直後から報道機関が取材を開始し、2棟目が攻撃された瞬間には、その映像が世界中に生中継されました。

ツインタワーへの攻撃の様子は、救助活動と猛烈な火災の模様とともに報じられました。火災は高層階で燃え広がり、建物の構造体を過熱させ、耐えきれなくなった構造はついに崩壊しました。

9時59分に南棟が崩落し、10時28分には北棟も崩落しました。一方、ペンタゴンへの突入の瞬間を捉えた映像はごくわずかしか残っておらず、UA93便の墜落の瞬間を記録した映像も存在しません。

犠牲者の数

犠牲者数の集計の結果、9月11日の攻撃による死者は合計2996人であることが判明しました。内訳は、ニューヨークで2606人、ペンタゴンで125人、航空機内(乗員・乗客を含む)で246人であり、さらにハイジャック犯19人の死亡も含まれています。

また、これは1941年の日本軍による真珠湾攻撃以来、アメリカが自国の領土で受けた初めての大規模な攻撃でもありました。

実行犯は誰だったのか?

9.11テロを実行したのは、アルカイダとして知られるテロ組織です。この組織は1980年代後半、アフガニスタン紛争の最中に誕生し、ウサーマ・ビン・ラーディンはその創設メンバーの一人であり、指導者でもありました。

攻撃の計画においてもう一人重要な人物がハーリド・シェイク・モハメッドです。彼は攻撃の首謀者(設計者)とみなされており、9.11事件における役割の裁判を待つ身となっていますが、審理は度重なる延期が続いています。

攻撃の動機

攻撃の主な理由は、ビン・ラーディンとその組織の過激主義にあると考えられます。彼らは、中東に駐留するアメリカ軍の存在を理由に、アメリカを最大の敵とみなしていました。ウサーマ・ビン・ラーディンとアメリカとの関係は、1980年代にさかのぼります。

1970年代後半、冷戦という文脈の中で、アメリカはアフガニスタン国内の反体制勢力への支援を開始しました。目的は、同国の共産主義政権を弱体化させ、ソ連に介入を促すことで、戦争によってソ連の資源を消耗させることにありました。

アメリカは国内の保守派グループを支援するようになり、これらのグループは米国から資金と武器を受け取り始めました。ムジャーヒディーンとして知られる彼らは、ソ連のアフガニスタン侵攻に対してジハードを宣言し、保守的な思想を掲げて戦いました。その帰結の一つがイスラム原理主義の台頭でした。戦争の過程で、ウサーマ・ビン・ラーディンも参戦を求められ、アフガニスタンへ向かいました。

1980年代後半、ビン・ラーディンは闘争をアフガニスタン国外へ広げることを決意し、アルカイダの創設に関与しました。当時、彼とアメリカの関係は良好でしたが、湾岸戦争の勃発により状況は一変します。

1990年、クウェートがイラクに侵攻され、クウェート王室はサウジアラビアの首都リヤドに避難しました。この事態は両国関係を悪化させ、イラク軍によるサウジ領内への侵攻の可能性を高めました。ビン・ラーディンはこれを好機と捉え、サウジ政府に対し、自らの(アルカイダの)兵力でアラビアの領土を守ることを申し出ました。

しかしサウジアラビアはビン・ラーディンの提案を拒否し、代わりにアメリカの支援を受け入れました。ビン・ラーディンはこれを重大な侮辱と受け止め、「異教徒」がサウジアラビアの聖なる大地を守ることは冒涜にあたると主張しました。こうして、彼はアメリカに対する深い憎悪を抱くようになったのです。

この一件により、ビン・ラーディンはサウジアラビアから追放され、スーダン、その後アフガニスタンへと移りました。そしてアルカイダは、復讐の形としてアメリカへの攻撃を組織したのです。

テロがもたらした影響

9.11テロはアメリカ社会に大きな衝撃を与え、米政府の対応は即座に行われました。2001年10月、米軍はアフガニスタン侵攻を開始します。目的は、アルカイダを匿っていたターリバーン政権(こちらも原理主義的な性格を持つ)の打倒でした。

アメリカによる侵攻はターリバーン政権を打倒しましたが、その後も同国の情勢は容易には安定しませんでした。以後長年にわたり、権力奪還を目指すターリバーン勢力との戦闘がアフガニスタンで続きました。この侵攻がもたらした悲劇として、2001年から2016年までの間に、民間人だけでも約3万1000人が死亡したとの推計があります。

アメリカ国内においては、民間航空の安全基準が極めて厳格なものとなり、テロ対策のための強硬な措置が講じられました。その一環として「愛国者法(Patriot Act)」と呼ばれる法律が制定され、後にUSAフリーダム法へと置き換えられました。