古代の歴史

ブーディカ――ローマ帝国に立ち向かったイケニ族の女王

ブーディカとは

ブーディカ(Boadicea、Boudiccaとも表記される)は、1世紀のローマ属州ブリタンニア北東部、現在のノーフォーク地方に勢力を張っていたケルト系部族イケニ族の女王であり、王プラスタグスの妻でした。

反乱の背景

西暦60年頃、王プラスタグスは遺言の中で、帝政法に従い自身の従属王国の半分をローマ帝国に遺贈しました。しかし、これを機にローマの行政官たちは度重なる侮辱や圧制を敷いたと伝えられています。

歴史家タキトゥス(『年代記』第14巻、『アグリコラ』第14~16章)およびディオ・カッシウス(『ローマ史』第62巻)の記述によれば、ブーディカ自身が鞭で打たれ、二人の娘が暴行されたことが決定的な引き金となり、彼女はついに武器を取ることを決意しました。こうした個人的な屈辱は、瞬く間に広範な民衆蜂起へと発展していきました。

反乱の経過

ブーディカは大軍を率い、ローマの植民市カムロドゥヌム(現コロチェスター)とその帝政聖域、さらに自治体ウェルラミウム(現セント・オールバンズ)、そしてロンディニウム(現ロンドン)を次々と焼き払いました。

しかし最終的に、61年にはローマ将軍スエトニウス・パウリヌスが反乱軍を撃破し、勝利を収めます。敗北を知ったブーディカは毒をあおって自ら命を絶ったと伝えられています。

歴史的意義

ブーディカの反乱は今日でも、ローマという侵略者に対するブリトン人たちの抵抗の象徴として語り継がれており、ガリアの英雄ウェルキンゲトリクスに対比される「英国版ウェルキンゲトリクス」とも称されています。

同時にこの反乱は、従属王国としてある程度の自立を保っていた時代から、完全なローマ帝国への統合へと移行する大きな転換点を画す出来事でもありました。

興味深いことに、当時存続していたもう一つのブリトン人従属王国、南部のトギドムヌスの王国は、反乱に対してどちらの側にも加担しなかったとされています。

ロンドンに立つ銅像

現在、ロンドンのウェストミンスター桟橋付近には、剣を手にして戦車を駆るブーディカの銅像が建立されており、その勇壮な姿を今に伝えています。