
1745年5月11日、オーストリア継承戦争の帰趨を左右した「フォントノワの戦い」。本稿では、決戦の舞台となった戦場の地形、フランス軍を率いたサックス元帥の布陣、そして自ら陣頭に立ったルイ15世の様子を紹介する。
わずか1キロ×2キロの決戦の舞台
ここは緩やかな起伏が続く丘陵地帯である。ただし当日は雨に濡れてぬかるみ、足元は極めて悪かった。全体としてわずかな傾斜を持つこの土地は、縦横およそ1キロ×2キロの四角形にすぎない。しかし、まさにこの限られた空間において、戦いの行方はすべて決せられることになる。
サックス元帥の布陣と「850メートルの空白」
サックス元帥は、アントワン(Antoing)からバリーの森(Bois de Barry)の向こう側まで自軍を展開させた。さらに重要な砲兵陣地を二箇所に設置している。一つはフォントノワ(Fontenoy)の背後に、もう一つはフランス軍左翼の前面、すなわち森の手前にである。重装備で固められたこれらの陣地は、防衛の支点として機能するはずだった。
ところがサックスは――彼自身も戦闘終了後に認めることとなる――勝利を危うくしかねない過ちを犯していた。フォントノワとバリーの森の間に広がる850メートルの間隔を要塞化しなかったのである。連合軍はまさにこの隙間へ殺到することになったのだ。
ルイ15世、陣頭に立つ
5月10日――王と共にある軍隊
5月10日の時点で、ルイ15世はバリーの森の手前に退避しており、王が自らそばにいることを知って喜びと誇りに満ちた軍隊の中に身を置いていた。遊び好きなことで知られたこの国王は、しばしばこう語っていたという。1356年のポワティエの戦い以来、フランスの主権者が息子とともに戦陣に立ったことはなく、また聖王ルイ以降、イングランドを相手にこれほど重要な会戦に自ら指揮を執った君主は存在しない、と。
5月11日早朝――ノートルダム・オー・ボワの指揮所へ
11日の未明、サックス元帥が最後の指示を与え続ける中、国王はノートルダム・オー・ボワ(Notre-Dame-au-Bois)に設けられた指揮所へと向かった。その周囲には皇太子(ドーファン)やヌアイユ元帥らが控えていた。
リシュリュー公爵の統括のもと、フランス王の安全は二重に確保されていた。ひとつは、万一の場合の撤退に備えてスヘルデ川(エスコー川)に架けられた橋頭堡。そして何より、国王・皇太子およびその近親者の護衛を専門に担う精鋭部隊の派遣である。