1774年10月18日にパリで生まれ、1853年12月28日に同じくパリで没したピエール=ダヴィッド・ド・コルベール=シャバネは、フランス革命の混乱から第二帝政の誕生まで、フランス史上もっとも激動の時代を駆け抜けた騎兵将軍である。

革命軍の義勇兵から将校へ
コルベール=シャバネはパリ第7大隊の義勇兵として軍歴をスタートさせ、ライン方面軍、続いてヴァンデでの戦いでめざましい昇進を重ねた。1795年には猟騎兵の少尉に任官されるが、王党派寄りの思想が原因で、1796年初頭にオッシュ将軍により停職処分を受けてしまう。その後、東方軍(エジプト遠征)において臨時の軍務委員として復帰し、再び軍務の道へと戻った。
ナポレオン麾下での栄達
フランス帰還後の1802年、近衛マムルーク隊の大尉に任じられ、その後はジュノー将軍、さらにベルティエ元帥の副官を務めた。1805年の大陸軍(グランダルメ)に随行してアウステルリッツの戦いで負傷。イタリア戦線への転戦を経て、1806年末には猟騎兵連隊の大佐へと昇進する。ハイルスベルクとフリートラントの戦いに参戦し、1807年7月17日には再び負傷した。
1809年オーストリア戦役と帝国男爵への叙任
1809年の対オーストリア戦役開始の直前に旅団将軍に昇進。アムシュテッテン(5月5日)やラーバ(6月14日)では軽騎兵の先頭に立って突撃を指揮し、決戦となったワグラムの戦いでは頭部に重傷を負った。その功績により帝国男爵に叙せられ、1810年にはオランダ、1811年にはドイツに駐屯している。
ロシア戦役から祖国防衛の戦いへ
1812年のロシア戦役では、近衛赤色槍騎兵隊を率いて従軍した。翌年のザクセン戦役ではバウツェンの戦いで目覚ましい活躍を見せ、1813年11月に師団将軍へと昇進。1814年のフランス戦役では、ラ・ロティエール(2月1日)、シャンボベール(2月10日)、モンミライユ(2月11日)、そしてアルシー・シュル・オーブ(3月20日)といった最終局面の戦闘に次々と参加し、崩壊しつつある帝国を守り抜こうとした。

ワーテルローの最後の突撃と晩年
百日天下の間、近衛槍騎兵隊の指揮官としてカトル・ブラおよびワーテルローの戦いで突撃を率い、そこで軍人として最後となる負傷を経験した。第二次王政復古期には一時投獄されるが、1826年に騎兵総監に任命され、その約10年後にはヌムール公爵に同行してアルジェリアのコンスタンティーヌ遠征にも参加している。
ナポレオン帝国の戦争を生き延びた最後の証人の一人であったコルベール=シャバネ将軍は、第二帝政の誕生を目の当たりにする長寿を全うした。その功績を讃え、彼の名はエトワール凱旋門に刻まれている。