概要
リトルビッグホーンの戦い(Battle of Little Big Horn)は、1876年6月25日、モンタナ準州リトルビッグホーン渓谷において、ジョージ・A・カスター中佐率いるアメリカ第7騎兵隊と、座頭牛(シッティング・ブル)や狂馬(クレイジー・ホース)らが率いるスー族(ラコタ族)およびシャイアン族の連合軍との間で行われた戦闘である。結果はインディアン側の決定的な勝利に終わり、カスター以下第7騎兵隊の主力5個中隊約210名が全滅した。
| 日付 | 1876年6月25日 |
|---|---|
| 場所 | モンタナ準州リトルビッグホーン渓谷(リトルビッグホーン川沿い) |
| 結果 | インディアン連合の決定的勝利 |
| 交戦勢力 | スー族・シャイアン族連合 vs アメリカ合衆国(第7騎兵隊) |
| 主な指揮官 | インディアン側:座頭牛、狂馬、トゥー・ムーン、クロウ・キング、ガル、レイン・イン・ザ・フェイス アメリカ側:ジョージ・A・カスター中佐、マーカス・レノ少佐、フレデリック・ベンティーン大尉 |
| 兵力 | インディアン側:約1,500人の戦士(総勢約6,000人のキャンプ) アメリカ側:将校31名、騎兵566名、インディアン斥候35名(計647名) |
| 損害 | インディアン側:戦死190〜200名、負傷200名程度(諸説あり) アメリカ側:戦死268名(カスター含む)、負傷60名 |
背景:ゴールドラッシュと戦争への道
1874年、カスターはブラックヒルズ(ダコタ・モンタナ境界)への探検隊を率い、スー族ラコタ族の保留地内で金鉱脈を発見した。政府は当初ゴールドラッシュを抑制しようとしたが、やがてブラックヒルズの購入を試みる。1875年9月の交渉が決裂すると、政府はモンタナの「敵対的インディアン」への軍事作戦を決定。1876年春、複数の縦隊がインディアンの大キャンプへ収束を始めた。6月17日、クロック将軍の縦隊がローズバッドの戦いで狂馬らに阻止され撤退した直後、カスターの第7騎兵隊が単独で大キャンプを発見、攻撃を決断した。
戦闘の経過
カスターは部隊を4つに分割し、多方向からの同時攻撃を企図した。
- レノ少佐(A・G・M中隊 約170名):南から村を攻撃
- ベンティーン大尉(D・H・K中隊 約125名):中央を支援・偵察
- カスター中佐(C・E・F・I・L中隊 約216名):北から迂回し村を包囲
- マクドゥガル大尉(B中隊 約101名):弾薬輜重隊を護衛
午後3時20分:レノ隊の攻撃と崩壊
レノ隊が谷底へ降下し散兵線を敷いて攻撃を開始。インディアンは不意を突かれたが即座に反撃、レノ隊の左翼を包囲し始めた。午後3時50分頃、レノは林中へ撤退を命じたが、樹木で隊列が乱れ、トゥー・ムーン、狂馬、クロウ・キングらの突撃を受けて大混乱に陥った。レノ自身がパニックに陥り「馬に乗れ、降りろ、また乗れ」と矛盾命令を出したため秩序は崩壊。退却戦で40名戦死、13名負傷の損害を出し、丘陵(のちのレノ・ヒル)へ逃れ込んだ。
午後4時10分:カスター隊の偵察と伝令
カスター隊は村北方の高地に到達。地形偵察と渡河点の確認を行い、ベンティーンへ「急いで合流せよ、携行弾薬を持参せよ(bring packs)」と伝令を派遣した。輜重隊は独自のペースで後方を進行中だった。
午後4時20分:カスター隊の分割展開
カスターは自隊を二翼に分けた。左翼(E・F中隊)を自ら率いてメディスン・テイル・クーリーの渡河点を偵察、右翼(キーオ大尉指揮のC・I・L中隊)を北東の狩猟隊帰還部隊の牽制にあてた。偵察後、部隊はカルフーン・ヒルに再集結。カスターはキーオ隊を尾根線に散兵線で展開させ、自らは第2の渡河点(ノース・フォード)を偵察して包囲攻撃を仕掛ける算段だった。この時点ではレノ隊がなお戦闘中と判断していたとみられる。
午後4時50分〜6時:ベンティーン隊の合流と見捨てられたカスター隊
ベンティーン隊はレノ隊とレノ・ヒルで合流。レノの不作為に憤激したウィア大尉らが独断でカスター救援に向かったが(午後4時50分)、45分間孤立無援のまま放置された。レノとベンティーンが本隊を動かしたのは午後6時頃で、その時にはカスター隊の運命は尽きていた。両隊はインディアンの主力に発見されるのを恐れ、カスターを見捨ててレノ・ヒルへ撤退・篭城した。
午後5時30分〜6時20分:カスター隊の全滅(「カスターの最期」)
シャイアン族の白痩酋長(レーム・ホワイト・マン)らの指揮下、インディアン主力が総攻撃を開始。ディープ・ラビン(深い谷)で防衛陣を敷いていた左翼がまず崩れ、続いて右翼も午後5時50分頃、1対5の劣勢と不利な地形(下馬戦闘)のもとで崩壊。最後の一団がカルフーン・ヒル〜ラスト・スタンド・ヒル一帯で午後6時20分まで抵抗し、カスター以下全員が戦死した。このエピソードは「カスターの最期(Custer's Last Stand)」として伝説化した。
戦後の集計と影響
第7騎兵隊の死者263名、負傷38名(全兵力の約半数が戦闘不能)。インディアン側の損害は近年の研究で戦死190〜200名、負傷200名程度と推定され、動員戦士約1,500名の約3分の1にあたる。この衝撃的敗北はアメリカ世論を激しく刺激し、14年後の1890年、ウンデッド・ニーの虐殺へとつながる「インディアン戦争」終焉期の残虐な展開を招く一因となった。
関係者の証言
ネルソン・A・マイルズ大将(陸軍参謀総長):「ここ(リトルビッグホーン)の機動を研究すればするほど、カスターへの敬意が深まる。」
ウィリアム・テイラー一等兵(第7騎兵隊・生存者):「レノは無能を、ベンティーンは無関心を晒した。二人ともカスターを見捨てた。それ以上の汚い言葉は控える。」
ホワイト・ブルー酋長(スー族):「骨の折れる戦いだった、実に骨が折れた。」
ガル酋長(スー族):「双方とも勇敢に戦った。」
座頭牛酋長(スー族):「勝敗があまりに不透明だったため、女たちにテントを畳み退去の準備を命じた。」/「カスターは勇敢な酋長だった。インディアンは彼を尊敬し、頭皮を剥がなかった。わが民の死者については私が弁明しよう。我々は正しかった。白人も彼らの側で同じことをしてほしい。」
グレゴリー・F・ミチノ(歴史家、1997年):「レノとベンティーンの生存者たちは、カスターの最期が短時間だったという説を広めることに利益があった。軍や職業将校にとって、カスターが2時間も孤軍奮闘し続けた間、彼らが手をこまねいていたと言わせるわけにはいかなかったのだ。」
アメリカ史屈指の論争
カスターの敗北をめぐっては、歴史家の間で今なお激しい論争が続いている。
- レノとベンティーンの「見捨て」疑惑:当時の陸軍最高指揮官マイルズ大将を含む複数の将校が、両名の不作為を非難。1879年の軍法会議的調査では「カスター救援は自殺行為だった」と判断されたが、現代でも議論は分かれる。デビッド・コルニュ(2006年仏語刊)らは証拠に基づき、両名を「軍事的裏切り(意図的な不救助)」と断罪する。
- レノのPTSD説:E・A・ブリニンストールら擁護派は、林中戦闘でレノが「砲弾ショック(戦闘ストレス反応)」に陥り、指揮不能状態だったと主張する。
- カスターの独断・軽率説:兵力分散、偵察不足、支援要請の遅れなど、カスター自身の判断ミスが敗因とする見方も根強い。
アメリカ文化における「リトルビッグホーン」
この戦いはアメリカ文化の深層に刻まれている。毎年平均1,000冊以上の関連書が刊行され、ゲティスバーグの戦いに次ぐ「アメリカで2番目に研究された戦い」とされる。カスターはエイブラハム・リンカーン大統領を超え、「最も多くの伝記が書かれたアメリカ人」の一人であり、「立って戦う(to stand and fight)」精神の象徴として一種の不滅性を獲得した。
映画では『黄色いリボン』(ジョン・ウェイン)、『カスター将軍』(アール・フリン)、『リトル・ビッグ・マン』(ダスティン・ホフマン)、『フォート・アパッチ』(ジョン・ウェイン/ヘンリー・フォンダ)など古典から、『ラスト・サムライ』『ウィー・ワー・ソルジャーズ』『風と共に去りぬ』風のオマージュまで無数に引用される。TVドラマ『ドクター・クイン』『デッドウッド』『イントゥ・ザ・ウェスト』でも言及され、博物館の展示『ナイト・ミュージアム』でもネタにされるほど普及している。
1991年まで戦場跡は「カスター戦場国立記念碑」と呼ばれていたが、現在は「リトルビッグホーン戦場国立記念碑」と改称。2003年には、カスターの遠縁の子孫と座頭牛ら酋長の子孫が共同で、インディアン戦士を顕彰する記念碑を建立し、和解の象徴とした。